炉心の沈黙は、思っていたよりもやさしかった。 さっきまで張りついていた歪みがほどけ、石の壁に染みついていた重さも、少しだけ肩から降りたように感じる。私は布の上に残った香草のかけらを指で払ってから、ふと背後を見た。魔王は黙ったまま立っている。その横顔には、戦いに勝った者の昂ぶりではなく、長く抱えてきたものをようやく置けた人間らしい疲れがあった。 「終わったのか」 問いは低い。けれど確かめる響きだった。 「まだ、完全じゃないです。でも、もう暴れません」 私がそう答えると、魔王はわずかに息を吐いた。その吐息に合わせるように、炉心の奥に残っていた鈍い振動がさらに遠のいていく。城がひとつの大きな肩書きみたいに抱えていた歪みは、今や静かに眠っているだけだった。 階上からは、かすかなざわめきが流れてくる。宴が完全に途切れたわけではない。人間側も魔族側も、まだ場を離れずにいるのだろう。火を止めた鍋のそばに残る余熱のように、関係もまた、消えずにそこにあった。 私は包みをまとめながら、胸の中でひとつの問いを何度も転がしていた。元の世界へ戻るための門。そこへ行けば、慣れ親しんだ台所も、手元の調味料の棚も、見慣れた日常もあるはずだった。けれど、この世界で私は、火をつけるだけの存在ではなくなっている。空腹を満たし、場をつなぎ、土地の流れにまで手を伸ばした。誰かの皿に向き合うたび、私の居場所は少しずつ増えていった。 戻るための門は、もう見えている。あちらに帰るのは、簡単だ。だが、簡単だからといって、それが答えとは限らない。 私は魔王のほうを向いた。 「ひとつ、考えがあります」 魔王の視線が上がる。 「戻るんじゃなくて、ここで新しい厨房を始めたいんです。今度は、ただ城の中じゃなくて、人間側の食材も、魔族側の食材も、ちゃんとつなげる場所を」 言い切ったあとで、自分の声が驚くほど落ち着いていることに気づいた。迷いがないわけではない。けれど、選びたいものがはっきりしていた。 魔王はしばらく私を見ていた。炉心の薄い明かりが、その瞳の奥で静かに揺れる。やがて彼は、口元だけをわずかに和らげた。 「面白い。なら、献立から考えるか」 「はい。まずは、朝に出すものを」 私は思わず笑ってしまった。こんな終わり方は、きっと誰も予想していなかっただろう。けれど、予想外なのは悪くない。むしろそれこそが、ここまで積み上げてきた日々にふさわしい。 魔王は私の答えを受け入れるように頷き、私は布をたたんで立ち上がる。門の向こうに戻る未来ではなく、この世界で続いていく厨房の始まりへ。二人で並んで歩き出すと、冷えていた石床の上に、まだかすかな温かさが残っていた。
検閲済みプロット
異世界に転生したら魔王の料理番となっていて、世界を救う物語にする。
