エラベノベル堂

零度の街で、まだ名のない鼓動

全年齢

小説ID: cmneirb1x000701n3bl7cjibb

9章 / 全10

面談要請の期日は三日後だった。蓮は端末の通知画面を閉じても、その文字だけがしばらく視界の裏に残った。再検査、補正提案、社会復帰支援。どれも親切な名前をしているのに、細い透明な箱へ入れられる感じがした。真琴は向かいに座って、冷めかけたコーヒーを両手で包みながら言った。 行きますか 行くしかないと思う。でも、直されるためには行きたくない 真琴は小さくうなずいた。彼女の端末には、不安の波と怒りの揺れがそのまま出ている。もう隠さないと決めた人の表示だった。 集会室では、世話役の女性が運営の公開実証会の情報を持ってきた。更新版アプリの精度を示すため、例外値や調整履歴保持者も対象にした観測実験を行うという。記録映像はそのまま配信される。運営は透明性の証明のつもりなのだろうが、蓮には別の好機に思えた。単独測定では欠損に見え、相互観測でしか立ち上がらない感受性。ならば、その場で示せるかもしれない。 真琴も同じことを考えたらしく、先に口を開いた。 蓮さん、あの場で私と話してください。検査されるんじゃなくて、向き合ってるところを見せるんです 実証会は湾岸の研究棟で行われた。白い壁、白い照明、白衣の補助員。感情の観測なのに、雪の中へ音だけ持ち込んだみたいに無機質だった。蓮は個別ブースへ案内され、脈拍、視線、声紋の測定器を装着された。正面の画面には、現在値0のまま安定と出ている。技術者が穏やかな口調で質問を重ねても、表示は変わらない。好きな景色は。最近うれしかったことは。傷ついた出来事は。蓮は答えた。海沿いの夕方、真琴が初めて補正を切った夜、就職を断られた帰り道の冷たい風。だが画面は無表情なままだった。 やはり反応なしですね、と技術者が記録端末へ入力する。 そのとき蓮は、ガラス越しの隣室にいる真琴を見た。彼女も測定中で、数値は激しく揺れていた。不安、緊張、そしてこちらを見つけた瞬間、名前をつけにくい光が差す。蓮はマイクに向かって言った。 質問を変えてください。僕一人じゃなくて、彼女と話させてほしい 規定外です、と技術者は即答した。だが配信を意識した責任者が、少し考え、短時間ならと許可を出した。透明性を示す演出くらいに思ったのだろう。 仕切りが開き、真琴が同じ空間へ入ってきた。白い部屋の中で、彼女だけが外の風を連れてきたみたいだった。 怖いですね、と真琴が言う。 うん。でも、前よりましです どうしてですか 一人で説明しなくていいから 真琴の目が揺れた。その揺れに引かれるみたいに、蓮の胸の奥で何かがほどける。川沿いの夜、歩道橋の風、ホールで聞こえた小さな拍手。言葉にしきれない記憶が、相手の顔を見た瞬間だけ輪郭を持つ。 私、最初に会ったとき、あなたの0を見て少しうらやましかったんです、と真琴は言った。何にも縛られてないみたいで。でも本当は、あなたのほうがずっとたくさん感じてた 蓮は笑った。気づくと、計測画面に微細な波形が現れていた。0の下に、未分類反応という見慣れない文字列が点滅する。技術者たちがざわめく。真琴の端末にも、通常項目に収まらない相関表示が開き、個人値ではなく対話共鳴率という試験指標が自動で浮かび上がった。 白い部屋の静けさが、初めて揺れた。運営が隠してきた初期仕様の亡霊が、真正面から戻ってきたようだった。蓮は画面ではなく真琴を見た。数値が初めて動いたのに、不思議とそれは勝利ではなかった。ただ、最初からここにあったものが遅れて表示されただけだと分かった。

9章 / 全10

TOPへ