長距離宇宙船アウレリアの朝は、いつも同じ匂いで始まる。再生空気の乾いた冷たさ、洗浄液のわずかな柑橘、夜勤明けの機関区画から漂う金属の熱。白く磨かれた通路を無言で進みながら、霧島遼は床面の微細な曇りを見逃さないように視線を滑らせた。かつては一音の濁りを聞き分ける耳で喝采を浴びた男が、今は汚れの輪郭を追っている。その事実に、もう痛みはないはずだった。少なくとも、誰にも触れられない限りは。 船内の時計に従えば午前六時。居住ブロックの清掃を終えるころ、人工重力が一瞬だけ浅くなった。身体が靴の中でふわりと軽くなり、すぐ元に戻る。よくある補正の揺らぎ、乗員たちはそう呼ぶ。だが今日は違った。天井灯の揺れ方が半拍遅れ、遠くで食器の触れ合う音が不格好に歪んだ。遼はモップの手を止め、耳を澄ませた。船全体が、見えない指で不器用に弾かれた弦のように震えている。 異常報告はすぐ流れた。局所的な重力偏差。安全性に問題なし。落ち着いた機械音声に、誰もが安心したふりをする。遼も返事の代わりに清掃端末へ完了印を打ち込み、次の持ち場である中央ラウンジへ向かった。 ラウンジは航海の長さを和らげるための場所だ。壁際には古びた書籍端末、窓に似せた映像パネル、その中心に、場違いなほど古風な木製のオルゴールが置かれている。真鍮の縁取りは擦れ、蓋には小さな流星群の象嵌。誰が持ち込んだのか、遼は知らない。ただ、毎日決まった時刻になると、それは短い旋律を奏で、談笑する乗員たちの声の底にひそかな秩序を与えていた。 その日、オルゴールは壊れた。 遼がテーブルの水跡を拭っていると、不意にゼンマイの巻き切れたような低い唸りがして、次の瞬間、音階が崩れた。高音は針のように尖り、低音は沈まず宙づりになり、旋律は数歩進んでは暗い段差でつまずく。耳の奥を爪で引っかかれるような不揃いな響きだった。近くにいた乗員は顔をしかめただけで、誰かが 「とうとう寿命か」 と笑った。だが遼だけは、その壊れ方に笑えなかった。ただ古くなって狂った音ではない。さっき船体を走った歪みが、そのまま小さな箱の中に写し取られたように思えたからだ。 彼は作業手袋を外し、オルゴールの脇にしゃがみ込んだ。鳴るはずのない余韻がまだ木箱の内側で震えている気がした。指先でそっと蓋を押さえると、かすかな反発がある。内部で何かがずれて噛み合ったまま、無理に沈黙している。 業務外のことに首を突っ込むな。昔の師にも、劇場の運営にも、最後にはそう言われた。正しい忠告だったのだろう。舞台を去るきっかけになったあの夜以来、遼は自分の耳を信じることから遠ざかってきた。完璧を求めすぎて崩れた指、喝采が義務に変わった日々、そして一度だけ訪れた致命的な沈黙。思い出しかけたところで、彼は息を吐き、記憶の蓋を閉じた。 ラウンジ管理端末には修理申請の項目があった。しかし正式な整備班に回せば、古い備品として交換されるだけかもしれない。遼はしばらく迷い、やがて清掃カートの底から精密ドライバーのセットを取り出した。清掃員はよく壊れた棚や緩んだ取っ手を直す。少なくとも、蓋を開けて汚れを取るくらいは職分のうちだと言い訳できる。 小さなねじを外しながら、遼はまた耳を澄ませた。船の奥で、さきほどの重力異常の名残が、誰にも気づかれないほど弱く鳴っている。そしてその不穏な拍の乱れに、オルゴールの狂った旋律が妙に寄り添っていた。 蓋が静かに持ち上がる。覗き込んだ暗がりの中で、金属の櫛歯と円筒の突起が、星図のように冷たく光った。遼は無意識に息を止めた。壊れたはずの箱の内部には、ただの古い機械と片づけるには整いすぎた規則が潜んでいた。彼の単調な勤務時間は、その瞬間、音もなく形を変え始めていた。
星航の底で、壊れた旋律は灯る
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