澪が岬を下りると、町はもう夕食どきの匂いに包まれていた。魚を焼く煙、味噌の湯気、店じまいの戸を引く音。どれも今までと同じなのに、少しだけ輪郭が深く見えた。ありがとう、とだけ書かれた手紙は鞄のいちばん内側にしまってある。その薄い重みが、歩くたび胸の近くで確かに揺れた。 翌朝、郵便局へ向かう途中、澪は商店街の角で真尋に会った。港へ行く途中らしく、寝不足気味の顔で缶コーヒーを振っている。終わった顔してるな、と真尋は笑った。澪もつられて笑い、終わってないよ、と答えた。むしろこれからかもしれない。そう言うと、真尋は少しだけ目を細めた。 役場の前には、新しい計画案を見に来た人が朝から集まっていた。志乃は掲示板の脇で、岬の写真を小さく並べている。草介老人は珍しく役場の職員と並び、灯台の展示に使う記録の話をしていた。誰かが誰かに説明し、別の誰かがその言葉を聞き継いでいく。その光景は派手ではないのに、澪には祭りの準備みたいに思えた。 その日の配達の最後に、澪は一通の封書を受け取った。差出人はなく、宛名も書かれていない。ただ局長が首をかしげながら、灯台に持っていくのか、と聞いた。紙は見覚えのある白さだった。澪は何も言わず、鞄に入れた。 岬へ着くころには、海は昼の光をゆっくり畳み始めていた。灯台のふもとで封を開くと、中には便箋が一枚。そこには、澪自身の字でこう記されていた。 来年も届けて。 短い文なのに、澪はしばらくその場から動けなかった。未来は変わった。警告は感謝に変わった。それなのに手紙は終わらない。むしろここから続いていくのだと、その一文は静かに告げていた。 やがて背後で草を踏む音がした。振り向くと、草介老人がいつもの歩幅で近づいてくる。来たか、とだけ言って、澪の手もとの便箋を見ると、今度は驚かなかった。 続くらしいな、と老人が言う。 うん、と澪は答えた。でも、もう怖くない。 それでいい、と草介老人は岬の先を見た。灯りというのはな、消えないことより、次の誰かが点けることのほうが大事なんだ。 風が強くなり、便箋の端がかすかに鳴った。澪はその音を聞きながら、祖母の言葉を思い出していた。手紙も、人の気持ちも、帰る場所を間違えることがある。けれど、誰かが届け直せばいいのだ。たぶんずっと、そうやって町は続いてきた。 灯台に明かりがともる。海へ向かう光は遠くへ伸び、町へ返る白さはやわらかく坂道を照らした。澪は新しい手紙を胸元にしまい、自分が十年後に何を書くのかをまだ知らないまま、静かに笑った。 配達鞄を肩にかけ直し、彼女は岬を下りていく。今夜の町には、もう失われる前の音ではなく、何かが受け渡されていく音が満ちていた。
潮岬の灯へ、十年越しの便り
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