エラベノベル堂

無音域を越える灯

全年齢

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10章 / 全10

観測ステーションアウルの封鎖が正式に決まったのは、救助から三日後だった。支援船の会議室でその通知を聞きながら、私は不思議なくらい静かな気持ちで記録端末を閉じた。怒りも、安堵も、もう単純な形では残っていなかった。ただ、あの海底で起きたことを、事故という短い言葉に押し込めてはならないという確信だけが、骨の芯に冷たく残っていた。 私たちは順に報告書へ署名した。ミラは設備系統の汚染経路を、ユナは薬剤と温度変化の反応記録を、ハンセンは脱出手順の改訂案をまとめていた。レオンは非常時の非音声連携について、驚くほど緻密な提案書を書き上げていた。誰もが少しずつ、海底から何かを持ち帰っていた。 私は最後に、培養画像と環境ログを統合した資料を提出した。未知の微生物。振動吸収。温度変化への適応。人為的な熱交換環境との結びつき。説明を終えたあと、探査部門の責任者が低い声で、今後は同様の実験を全面停止すると告げた。会議室には重い沈黙が落ちた。けれどその時、私はようやく違和感の正体に気づいた。 停止だけでは、足りない。 私は端末を開き直し、最後の頁を映した。そこには、ポッド外殻に付着した膜の失活記録と、回収後に採取した微量残渣の再測定結果が並んでいた。船上では活動を失ったと思われたその痕跡は、完全に死んでいたわけではなかった。高温域で増殖はしない。だが一定条件で休眠し、環境が合えば別の代謝へ移る兆候がある。しかもその条件は、海底ではなく、人間の生活圏にもっと近い温度帯に寄っていた。 会議室の空気が凍った。 つまり、私たちが持ち帰ったのは教訓だけではない。新しい環境に適応を始めた、まだ名もない生存の芽そのものだったのだ。支援船の配管、医務室の換気、研究棟の保管庫。安全だと思っていた場所ほど、彼らには次の揺り籠になり得る。 私はそこで、封鎖ではなく移送を提案した。人の技術から最も遠い場所へ、ではない。逆だ。最も厳密に観察できる場所へ、責任ごと持ち込むべきだと。隔離研究施設を新設し、環境改変の影響を前提に微生物の適応限界を調べる。その計画書は、実は聞き取りの合間にすでに書き始めていた。 ハンセンが私を見た。疲れ切った顔の奥で、かすかに笑っていた。無茶だ、と口が動いた気がした。たぶんその通りだった。 数時間後、私は甲板に出た。北極の空は低く、海は鉛色で、風は相変わらず容赦がない。けれど耳に届く波の音はもう脅威ではなかった。静寂の底で待っているものは、海だけのものじゃない。人が手を伸ばした場所ならどこにでも現れる。 だから私は、研究を続けると決めた。北極の静けさを恐れるためではなく、その静けさに何を混ぜてしまったのかを知るために。海底から生還した日、物語は終わったのだと思っていた。けれど本当は逆だった。あの日、私たちはようやく最初の扉を開けてしまったのだ。

検閲済みプロット

北極圏の海底観測ステーションで、微生物研究者の主人公が『音を吸収する性質を持つ細菌』の異常増殖を発見し、通信が途絶えた基地で仲間と協力しながら脱出と原因究明を目指す、緊迫感のある一般向けSFサスペンス。

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