朝の冷えた空気がまだ谷あいに残るころ、町工場の正門前は妙にざわついていた。いつもなら軽トラックの出入りと金属音だけが響く時間なのに、今日は作業員たちが輪になって片手を空に伸ばし、もう片手で弁当箱を守るようにしている。門柱の上では、茶色い毛並みのニホンザルがひとつの弁当をくわえ、器用に身をひるがえしていた。 「こら、返せ!」 誰かが叫ぶと、サルはまるで合図を待っていたように飛び降りた。地面を蹴って資材置き場のほうへ駆け、背後を振り返っては歯を見せる。その動きがやけに軽く、追う側の足取りだけが重い。誰かの昼の楽しみだったはずの弁当は、あっという間に騒動の中心になった。 健一は工場長としての顔を硬くして、門の外へ回り込もうとした。 「追い払う。放っておくと、また来るぞ」 だが、その声に重なるように、奈津美が静かに前へ出た。父の腕をそっと止める指先は小さいのに、不思議と落ち着いていた。 「待って。たぶん、空腹で迷っただけかも」 健一は眉を寄せたまま、逃げ回るサルを見た。サルは弁当を抱えたままではなく、少しだけ離れた場所で立ち止まり、人間たちの顔を順番に見ている。敵意というより、何をしているのか確かめるような目だった。 「迷っただけで弁当を盗るか」 健一の言葉に、奈津美はすぐには返さなかった。サルの腹が、かすかに鳴ったような気がしたからだ。工場の朝は忙しい。けれど、飢えたものを叩き出すには、どうにも胸が引っかかる。 「軒下に何か置こう。水と、果物くらい」 健一はまだ不服そうだったが、奈津美の目に押されるように黙った。誰かが台所から残っていたみかんを持ってきて、別の者が蛇口から汲んだ水を小さな皿に注ぐ。工場の軒下にそっと並べると、さっきまで荒れていた空気が少しだけ和らいだ。 サルは距離を保ったまま、その置き土産を見つめていた。すぐには近づかない。ただ、逃げるでもなく、金属の匂いと人の気配に満ちた正門前で、長いことこちらを見返していた。 奈津美はその目の奥に、警戒だけではないものを見た気がした。騒ぎの只中にいるのに、なぜだか確かな予感が胸の底で小さく鳴っていた。
鋼の朝に、福猿は帰る
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