エラベノベル堂

鋼の朝に、福猿は帰る

全年齢

小説ID: cmnegsz4s000101pah67lc6l8

2章 / 全10

昼の休憩を知らせる鐘が鳴るころには、朝の騒ぎが嘘のように工場の空気は落ち着きを取り戻していた。軒下に置いた果物は、いつの間にか減っている。茶色い毛並みのサルは残ったひとかけらを口に運び、指先で器用に確かめるように食べていた。 満足したのか、サルはふいに顔を上げた。視線の先にあるのは、人の手が届かないほど高い工具棚だった。整然と並んだレンチやドライバー、箱に収められた細かな部品。まるで何か珍しいものでも見つけたように、サルは首を傾けてじっと見上げる。 その様子を見て、奈津美はそっと息を吸った。急に近づけばまた逃げるかもしれない。彼女は床に落ちていた掃除用の布を拾い、わざとゆっくり広げてみせた。拭く、という動きが伝われば、敵ではないとわかるかもしれない。サルはしばらく奈津美の手元を見つめ、それから布と床を交互に見た。 次の瞬間、細い腕がすっと伸びた。床の隅に転がっていたネジをつまみ上げ、ほかのネジへと目を走らせる。ひとつ拾うたびに、またひとつ、またひとつ。あたかも散らかったものを片づけるように、サルは小さな金属を集め始めた。 「見てるぞ、ちゃんと」 誰かが小声で言った。別の職人が吹き出し、また別の者が肩を震わせる。さっきまで眉をひそめていた顔が、いつの間にかゆるんでいた。 奈津美は、笑い声の中でサルの動きを見守った。拾ったネジを掌にため、さらに床のほうへ鼻先を向ける姿は、ただの気まぐれには見えない。真似をしている。人のすることを、目で覚えようとしている。 工具棚の前で背伸びをしていたサルが、ふと奈津美を見た。警戒でも挑発でもない、確かめるような目だった。奈津美は掃除用の布を軽く振ってみせる。するとサルは一瞬だけ考えこみ、集めたネジを抱え直したまま、また床を探し始めた。 工場の昼はまだ途中だった。だが、その片隅で、何かが静かに始まりつつある気配だけが、確かにあった。

2章 / 全10

TOPへ