エラベノベル堂

吹雪の山小屋、告白は暁に溶ける

全年齢

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1章 / 全10

八月の終わり、空は拍子抜けするほど穏やかだった。大学の登山部が合宿を兼ねた山行に選んだのは、県境にまたがる標高の高い峰だった。集合場所の登山口には、真新しい登山靴の泥ひとつない一年生から、使い込まれたザックを無造作に地面へ置く上級生まで、ひと通りの緊張と気安さが混ざっていた。 二年の真白は、出発前の点呼のあいだ、空よりも人の顔を見ていた。主将の蓮見は予定表を手にして落ち着いた声で行程を確認し、顧問の倉橋は無理をしないこと、と毎年同じ言葉を少しだけ強く言い添える。部内には来月の大会を意識した空気もあって、歩行ペースひとつにもささやかな対抗心がにじんでいたが、朝のうちはそれも軽い冗談の範囲だった。 樹林帯を抜けるまで、山はむしろ歓迎しているようだった。湿った土の匂い、沢の細い音、陽に透ける葉の明るさ。真白は先頭と最後尾の間あたりを歩きながら、何度も後ろを振り返った。遅れる者がいないかを見る癖は、一年の春に先輩へ叱られてから身についたものだ。ふと、少し離れた位置に見慣れない集団がいるのに気づいた。年の近い男女三人。胸元の大学名の刺繍は別の色だった。 昼前、稜線へ出るころには風向きが変わっていた。遠くの雲が低く垂れこめ、青さを残していた空が、だれかに刷毛で塗りつぶされるように鈍っていく。倉橋が地図を開き、蓮見と短く言葉を交わした。その横顔に迷いが差したのを、真白は見逃さなかった。 最初の雨粒は大きく、間を置いて落ちた。次には数を増し、風がそれを横殴りに変えた。視界が白く荒れ、足元の石は急にいやらしい角度で滑り出す。予定していた先の避難小屋までは遠い。顧問の判断は早かった。ここから近い旧い山小屋へ退避する。異論を差し挟む余地のない声だった。 登山道を外れ、薄い踏み跡をたどる時間がやけに長く感じられた。雨具の表面を叩く音で会話はちぎれ、互いの顔もフードの影に隠れる。真白は前を行く蓮見のザックについた赤いカラビナだけを目印にした。やがて霧の奥に、黒ずんだ屋根が浮かび上がった。古い山小屋は斜面にしがみつくように建ち、窓は小さく、板壁は長い冬を何度もくぐり抜けた色をしていた。 戸を開けた瞬間、湿った木の匂いと人いきれが押し寄せた。中にはすでに先客がいた。さきほど見かけた他大学の登山者たちで、彼らも天候悪化で足止めされたらしい。狭い土間に濡れた靴が並び、壁際にはザックが肩を寄せ合うように積まれていた。 「思ったより満員だな」 と蓮見が苦く笑い、相手側の代表らしい青年が会釈を返す。倉橋はまず人数を数え、窓の閉まり具合とストーブの状態を確かめ始めた。慣れた手つきに少し安堵しながら、真白は部員たちの表情を見回した。疲労、緊張、安堵、そのどれにも収まりきらない硬さが、何人かの顔に残っている。 外では風が小屋の壁を拳で叩くように鳴っていた。今日中の下山はもう考えられない。限られた食料、悪い通信状況、見知らぬ相手との同居。小屋の中心に吊られた裸電球が弱々しく揺れるたび、室内の影は少しずつ濃くなった。 真白は自分の濡れた手袋を脱ぎながら、なぜか入口脇の古びた記録ノートに目を留めた。背表紙は擦り切れ、何度も開かれた頁の端が波打っている。その脇を、誰かがさっと通り過ぎた。顔を上げたときには、もう誰だったのか分からなかった。 山の夜が来るには、まだ少し早いはずだった。けれど小屋の中には、もう長い夜の気配が入り込み始めていた。

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