花街の外れにある老舗劇場、明彩堂は、昼でもどこか夜の名残を抱えていた。赤い緞帳には長年の拍手が染み込み、磨き抜かれた廊下の床は、急ぐ靴音まで芝居の一部に変えてしまう。そこで今季の目玉として発表された新作レビューの題名を聞いたとき、座員たちはしばらく黙り、それから一斉にざわめいた。『スライム行進曲』。夢があるのか悪ふざけなのか判じかねる名だったが、稽古初日の稽古場には、妙に浮き立つ空気が満ちていた。 看板スターの天城レオは、その空気の中心に立つだけで場を支配した。長い手足、よく通る声、鏡の前に立てば自分の輪郭すら演出に変えてしまう男だ。 「変わった題材ほど、格好よく見せる価値があるだろ」 と笑うと、年かさの座員までつられて背筋を伸ばす。一方で、演出助手の志乃は台本と鉛筆と裁縫道具をまとめて抱え、誰かの襟を直し、誰かの出欠を確かめ、誰かの不安を先回りして拾っていく。忙しさのあまり自分の髪にチョークの粉がついていることにも気づかない。 大道具係の湊は、その志乃に呼ばれるたび小さく肩を揺らしながらも、頼まれごとをきちんと片づけていった。口数は少ないが手先は驚くほど器用で、壊れた飾り枠も、きしむ車輪も、彼の指にかかれば黙って息を吹き返す。今回もっとも重要なのは、舞台の奥からせり上がる大階段と、レビューの題名どおり、ぷるぷる揺れる不思議な舞台演出だった。光を受けてやわらかくきらめき、群舞の動きに合わせて生きもののように波打つ。それをどう実現するかが、今回の勝負だった。 「安っぽいのは嫌よ。子どものお菓子みたいなのも違う。上品で、でもばかばかしいくらい派手に」 演出家の注文を受けて、志乃は眉間を押さえた。 「つまり難しい、ですね」 「つまり腕の見せどころだろ」 横からレオが軽く言う。湊は巻尺を手にしたまま、稽古場の床に広げた設計図を見下ろしていた。階段の幅、傾斜、照明の角度、素材の反射。細い文字でびっしり書き込まれた紙の端に、彼は誰にも見せていない小さな工夫を書き足す。揺れが美しく見える厚み、動きに遅れて震える膜の張り方。言葉にするのは苦手でも、舞台の景色なら考え続けられた。 やがて音楽が鳴り、読み合わせが始まる。滑稽で、華やかで、どこか胸をくすぐる旋律に合わせ、座員たちはまだぎこちない足取りで行進の形をつくった。レオは早くも本番さながらに視線を飛ばし、志乃は列の乱れを直し、湊は袖から階段の仮組みを見守る。笑いの絶えない題材のはずなのに、誰も遊び半分ではいなかった。ふざけた題名の向こうに、明彩堂らしい大きな見せ場をつくる。その気概だけは、全員の胸で同じ熱を持っていた。 休憩の合間、薄暗い舞台袖から客席をのぞくと、空っぽの椅子が静かに並んでいた。まだ誰もいないのに、そこにはもう期待の気配があった。志乃が小さく息を吐く。 「絶対、面白い舞台にしましょうね」 湊がうなずくより先に、レオが振り向きもせず答える。 「当然だ。伝説にするぞ」 その言葉は大げさなくせに、不思議と冗談には聞こえなかった。古い劇場の天井近くで、埃が照明の筋にきらめく。新しいレビューの幕は、まだ上がってもいないのに、もう誰かの心を鳴らし始めていた。
緞帳の向こう、翠の喝采
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