千秋楽の夜、明彩堂には雨が降っていた。劇場の屋根を細かく打つ音が、開演前のざわめきの底で静かなリズムを刻んでいる。『スライム行進曲』は連日の満員で、楽屋口には最後の一夜を惜しむ花が並び、客席には初日から通う顔も、噂を追ってやって来た顔も混じっていた。伝説になった舞台の締めくくりを、誰もが見届けようとしている。その熱を背に、志乃は進行表を畳んだ。もう紙にしがみつく必要はないと、今は知っている。湊は操作盤の前で小さく息を整え、レオは鏡越しに二人を見て笑った。 「終わらせるなよ」 「縁起でもないです」 「終わっても、消えなきゃいい」 湊のその一言に、レオは少しだけ目を細めた。幕が上がる。舞台は最初からよく晴れた夢のように進んだ。笑いは軽やかで、歌は伸びやかで、群舞の足音はひとつの生きものみたいに揃っている。誰かが誰かを支え、誰かの揺らぎを別の誰かが美しく見せる。その積み重ねが、今夜の明彩堂を満たしていた。フィナーレが近づいても、袖に焦りはない。あの洪水を越えた一座は、危うさを怖がるのでなく、抱えたまま踊ることを覚えていた。大階段に光が降り、半透明の揺れが呼吸を始める。レオが頂へ向かい、志乃が合図を送り、湊の指が最後のきっかけを入れた。次の瞬間、客席の後方でひとつ、鈴のような笑い声が響いた。舞台上の誰の声でもない。けれど不思議と耳に残る、明るい声だった。レオがわずかに視線を上げる。客席のいちばん後ろ、補助椅子の並ぶ影に、小さな子どもが立っていた。丸い雨合羽を脱ぎそこねたまま、きらきらした目で舞台を見上げている。その姿は、妙にあの光る塊に似ていた。係の者が駆け寄るより先に、子どもは両手を広げて叫んだ。 「ぼく、あのひ!」 初日の、という意味だと誰もがすぐにわかった。客席がどっと沸く。母親らしい女性が真っ赤になって頭を下げるなか、レオは階段の頂で笑った。そして予定にはない台詞を、客席へまっすぐ投げた。 「では今夜の千秋楽、証人に聞こう。明彩堂の主役は誰だ?」 子どもは迷いなく舞台を指さした。 「みんな!」 その返事に、劇場が一瞬止まり、それから爆発するみたいな拍手と笑いに包まれた。レオは肩をすくめ、背後を振り返る。志乃も湊も、袖の座員たちも、皆が目を丸くしてから笑っていた。完璧な決め顔も、計算された締めも、その一言で吹き飛んだ。けれど同時に、それ以上ない終幕になった。レオは深く礼をし、群舞を呼び込み、舞台いっぱいに一座が広がる。湊の揺らす光はやさしく脈打ち、志乃の合図で全員が前へ出る。もはやスターひとりの頂ではなく、みんなで立つ大階段だった。終演後、雨は上がっていた。楽屋口でレオはぼそりと言った。 「完敗だな」 「誰にですか」 と志乃が笑う。 「客席だ。いや、あの一言にか」 湊は静かに答えた。 「でも、たぶん最初からそういう舞台だったんです」 伝説のドタバタ舞台として語り継がれる『スライム行進曲』の結末は、洪水でも完璧な整列でもなかった。明彩堂の誰より小さな観客が、たったひとことで本当の主役を決めてしまった夜のことを、のちに人は何度でも語ることになる。
検閲済みプロット
タイトルは『スライム行進曲』。往年の舞台ドラマを思わせる人情味とドタバタ感のあるパロディ作品。劇団の看板スター、彼を支える仲間、舞台裏で奮闘するスタッフたちの絆とすれ違いを、コミカルで一般向けに描く。クライマックスでは劇場の大階段でスライム状の舞台小道具が予想外にあふれ出し、会場が大混乱になるが、力を合わせて乗り越える爽快な結末にする。
