三日目の開演前、明彩堂の空気は妙に静かだった。昨日まで廊下を満たしていた興奮が、今日は芯のある緊張に変わっている。もう誰も、ただのハプニング待ちではいられないのだと、劇場じゅうが知っていた。志乃は袖で進行表を見直しながら、その静けさを頼もしく思った。湊は大階段の裏で最後の調整を終え、工具箱の蓋を閉じる。その音が、ひとつの区切りみたいに響く。そこへ現れたレオは、いつもの自信に満ちた顔のまま、二人を見て言った。 「今日は何が来ても、もう驚かない」 志乃が笑う。 「そう言う日に限って来るんですよ」 「なら、来たものを客席の宝にするだけだ」 湊も小さくうなずいた。 幕が上がると、舞台は最初から熱を帯びていた。初日の伝説を知る客も、噂だけを聞きつけた客も、皆が明彩堂の一挙手一投足を見逃すまいとしている。その視線を、座員たちはもう怖がらなかった。群舞は軽やかに弾み、娘役たちはきらめく笑顔を客席へ投げ、男役たちは足音ひとつまで音楽に変える。志乃の合図は短く正確で、湊の装置は舞台の呼吸に寄り添うように動いた。レオはその中心で、ようやく一座全体の熱を背負うことに慣れた顔をしていた。 だがフィナーレ直前、袖の空気がふっと変わった。昨日抑えたはずの上段の仕込みが、またしてもわずかに脈を早めていたのだ。膨張そのものは制御の内側にある。けれどほんの少しでも合図を誤れば、あの洪水の名残が再び牙をむく。湊の指が操作盤の上で止まる。志乃はその横顔を見て、すぐに座員たちへ視線を走らせた。誰も気づいていない。舞台上ではレオがすでに大階段へ足をかけている。 ほんの一拍の沈黙のあと、レオは階段の途中で振り返り、客席へ向かってふっと笑った。 「明彩堂の行進は、少々気まぐれです」 客席がどよめく。その言葉を合図に、志乃は袖の奥へ指示を飛ばした。 「上手、金を強く。群舞、半円で待機」 湊は止めるのではなく、揺れの波を細く伸ばした。すると上段の半透明のふくらみはあふれ出す寸前で形を変え、まるで巨大な花が開くみたいに左右へ広がった。初日の洪水を知る観客ほど、その違いに息をのむ。 群舞がその光の花弁のあいだを縫うように進み、娘役の袖がきらめきをすくい上げる。男役たちは行進の足取りを少し崩し、波を乗りこなす旅人のようにレオの後ろへ続いた。危機を消したのではない。危機の形を変えて、舞台の一部へ縫い込んだのだ。レオは階段の頂で腕を広げる。その背後では、暴れかけたスライム状の輝きが、今度は整然とした噴水のように脈打っていた。 最後の音が落ちた瞬間、客席は一瞬しんと静まり、それから昨日とも初日とも違う、深い拍手が満ちた。派手な事故を待っていた笑いではなく、乗りこなしたことへの喝采だった。袖で志乃は長く息を吐き、湊は操作盤に置いた手をゆっくり下ろす。レオが戻ってくるなり、二人の肩を順に叩いた。 「ほらな、来ただろ」 「ええ、来ましたね」 と志乃が笑い、湊は照れたように目を伏せた。 「でも、もう大丈夫でした」 その言葉に、古い劇場のどこかが静かにうなずいた気がした。伝説は偶然だけで生まれるのではない。偶然に二度目の顔を与えたとき、本当に物語になるのだと、三人はようやく知った。
緞帳の向こう、翠の喝采
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