エラベノベル堂

白衣の朝、月影は街を診る

全年齢

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1章 / 全10

朝の外来が始まる前から、白野 恒一の診察室の前には人が並んでいた。小さな港町にある白波総合病院で、彼女は若くして内科のエースと呼ばれている。話をよく聞き、必要以上に脅かさず、けれど見落としもしない。その評判は年寄りの井戸端から商店街の揚げ物屋まで広がっていて、熱を出した子どもはもちろん、どこも悪くないのに恒一の顔を見ると安心するという患者までいるほどだった。  その日も彼女は落ち着いていた。咳の止まらない漁師には生活の癖まで丁寧に尋ね、眠れないと訴える花屋の店主には薬より先に、閉店後の静かな散歩を勧めた。診察を終えた老婦人が 「先生は薬より効くねえ」 と笑うと、恒一は困ったように目を細めた。 「それは困ります。私はちゃんと薬にも働いてもらいたいので」  看護師たちがくすりと笑う。そんな空気まで、彼女の診療の一部だった。  昼休み、職員食堂で同僚の外科医に肩をつつかれた。 「白野先生、また寝不足?」 「え」 「目の下、ちょっとだけ。忙しいのはわかるけど、倒れないでよ」  恒一は味噌汁のお椀を持ったまま首をかしげた。昨夜は、たしか早く寝たはずだった。少なくとも、眠る前の記憶はある。入浴して、ソファで医学誌を開いて、そこで少し眠くなって。そこから先が妙に曖昧だった。  帰宅してから、その曖昧さはさらに輪郭を持った。玄関の棚に、見覚えのない折りたたみ式の小さな懐中電灯が置かれていた。冷蔵庫には走り書きのメモが一枚、磁石で留められている。  明日の朝、中央市場の青果店をのぞくこと。店主の咳は店の奥の埃が原因かも。マスク着用。  丸みのある字ではあるが、自分の筆跡に似ている。似ているだけで、書いた覚えがない。恒一はメモを外し、裏返し、また表に戻した。意味は通る。むしろ診察の延長としては的確ですらある。だが、なぜ青果店の奥の埃まで知っているのか。  翌朝、市場へ寄ると、件の店主は本当にひどい咳をしていた。奥の倉庫を見せてもらうと、古い段ボールの山に灰色の粉が積もっている。恒一が換気と掃除を勧めると、店主はぎょっとした。 「なんで先生、それを。昨日、匿名で同じことを書いた紙が店の戸に挟まっててさ」  恒一は愛想笑いを浮かべたまま、胸の内だけ冷たくなった。  その夜、彼女は眠る前に万年筆と手帳を机に置いた。自分で確かめるためだった。もしまた記憶が途切れるなら、何か残るかもしれない。窓の外では、港へ戻る船の汽笛が低く響いていた。町は穏やかで、だからこそ水面の下に濁りがあると目立たない。  朝。目覚めた恒一は、ベッドの中で数秒固まった。手首に細い擦り傷が一本、机の上の手帳は開かれ、昨夜とは違う勢いのある字が踊っている。  動くなら今夜。薬局裏の路地、偽物の健康食品。まずは話を聞くこと。走りやすい靴を用意して。  その横には、彼女のクローゼットにないはずの黒い帽子が、きちんとたたまれて置かれていた。  恒一は額を押さえ、しばらく天井を見つめた。昨夜の記憶は霧の向こうだ。ただ、夢の名残のように、石畳を軽く蹴る感覚だけが足裏に残っている。診察室では誰より冷静でいられるのに、自分のことになると、まるで見知らぬ患者のカルテを覗き込む気分だった。  そしてその日の外来で、薬の被害を訴えていた若い女性が、なぜか晴れやかな顔で言った。 「先生、この前の怪しい店、急に閉まったんです。助かりました」  恒一は聴診器を持つ指を止めた。窓の向こうでは、昼の町が何事もなかったように光っていた。けれど彼女の夜だけは、もう静かではいられない気がしていた。

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