夜の病院は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。自動ドアの向こうで風が鳴り、非常灯だけが白い廊下の端を薄く照らしている。綾香は白衣ではなく、動きやすい上着の袖をひとつ折り上げ、窓のない通路を確かめるように歩いていた。 眠っているはずの自分が、こんな場所にいる。その違和感すら、今の綾香には遠い夢のようだった。足取りは妙に落ち着いていて、迷いがない。手帳を開いて何かを確認すると、彼女は小さく息を吐いた。 「裏動線は……ここで合ってる」 独り言は低く、昼間の柔らかさとは別人のように乾いている。 屋上へ続く扉を押し開けると、夜気が頬を撫でた。街の明かりは遠く、病院の屋上だけが切り取られた舞台みたいに浮いて見える。綾香は柵のそばに立ち、下を見下ろしてから、背後に視線を流した。 「遅い」 誰もいないはずの空間に、短い言葉だけが落ちる。 次の瞬間、暗がりの奥から封筒が差し出された。厚みのある白い封筒で、表には何も書かれていない。綾香は一瞬だけ指先を止めたが、すぐに受け取る。 「中身は?」 返事はない。ただ、屋上の出入口の影がわずかに揺れた。 綾香は封筒を胸元で軽く叩き、納得したようにうなずく。 「了解。これで十分」 そのまま彼女は足を返し、迷いなく裏口へ向かった。裏動線に回ると、人の気配はさらに薄くなる。搬入用の扉、消毒液の匂い、点滅する防犯灯。昼には見慣れた場所なのに、夜に立つとまるで別の病院みたいだった。 綾香は封筒を持ったまま、周囲を確かめるように一度だけ振り向く。誰かに見られている気配がしたのか、細い肩がわずかに止まった。 だが、彼女は何も気にした様子を見せず、そのまま裏口の外へと消えていく。 少し離れた陰で、綾香の後輩として彼女を見守る昭太が、息をするのも忘れていた。 「……え」 昼間の綾香しか知らない彼には、今の姿が信じられなかった。患者に向けるあの優しい声も、戸惑ったように笑う顔も、ここにはない。代わりにいたのは、落ち着きすぎた足取りで病院の影を使いこなす、知らない女医だった。 昭太は手すりを握りしめたまま、ただ呆然とその背中が夜に溶けるのを見送るしかなかった。
白衣の朝、月影は街を診る
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