それから数日、港町では妙な噂が広がった。夜更けになると、どこからともなく現れる謎の潜入者がいるらしい。高すぎる浄水器を年寄りに売りつける一団の倉庫に、契約書の写しだけがごっそりなくなっていた。商店街の裏で産地を偽っていた乾物屋には、翌朝には役所への匿名通報が届いていた。誰も姿をはっきり見ていないのに、黒い帽子だけがやけに目撃される。町の人々は半分おびえ、半分面白がって、その人物を勝手に名付けた。夜鴉。 恒一だけが、その呼び名を聞くたびに胸の奥がむずむずした。 昼の彼女のまわりでは、奇妙なくらい都合よく問題が解決していく。高額なサプリメントで胃を壊した患者は、販売元が営業停止になったと笑顔で報告し、介護用品の不正請求に困っていた老夫婦は、調査が入ったおかげで負担がなくなったと菓子折りを持ってきた。ありがたい。けれど、ありがたすぎる。 休憩室で看護師長に温かいお茶を差し出され、恒一は苦笑した。 「先生、最近さらに顔色が薄いわよ」 「生まれつきです」 「そういう意味じゃなくて。夜に論文でも書いてるの?」 「書いていたら、もう少し知的な隈になっているはずです」 隣で聞いていた検査技師が吹き出し、看護師長は呆れたように首を振った。周囲の心配は本物だとわかるほど、恒一の生活は綻び始めていた。朝起きると靴底に砂がついている。ポケットから小銭ではなく、どこかの店のレシートや簡単な地図が出てくる。昨夜は早寝したはずなのに、冷蔵庫には新しいメモが増えていた。 次は古時計店。店主は耳が遠いふりをする。左の棚、二段目。 意味がわからないくせに、妙に具体的だ。 確かめようと決意した恒一は、その夜、眠る前に自分の手首とベッドの柱をゆるい布で結んでみた。医師として推奨できない手段だが、患者が同じことを相談してきたら全力で止める種類の方法でもある。自覚はあった。だが翌朝、布はきれいに解かれ、結び目の横には丁寧な字で置き手紙があった。 血流が悪くなる。次はもっと賢く。 恒一は布を握りしめたまま、しばらく声も出なかった。腹立たしいのに、少しだけ感心してしまうのがもっと腹立たしい。 そこで彼女は同僚の神崎に相談しようとして、途中でやめた。内科医が自分の多重生活を疑っているなど、言葉にした瞬間に休職コースである。代わりに遠回しに尋ねた。 「人って、自分で自分に隠し事できますか」 「できるんじゃない? 俺なんか給料日まで財布見ないようにしてるし」 「それは現実逃避です」 「じゃあ白野先生は?」 「私は財布の中身より厄介です」 神崎は真面目に返そうとして失敗し、結局二人で笑ってしまった。深刻になるたび、誰かがずらしてくれる。この町はそういうところがある。 けれどその日の夕方、古時計店の前を通りかかった恒一は、無意識に足を止めた。店内の左の棚、二段目には、時計ではなく分厚い帳面が半分だけ見えていた。店主が慌ててそれを隠す動きまで、まるで昨夜の自分が予告していたみたいだった。 診察鞄を抱えたまま立ち尽くす恒一の胸で、不安と確信が少しずつ同じ形になり始めていた。夜の誰かは、ただ騒ぎを起こしているのではない。昼の自分が救えなかった隙間を、勝手に埋めて回っているのだ。問題は、その誰かがほかでもない自分らしいということだけだった。
白衣の朝、月影は街を診る
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