エラベノベル堂

白衣の朝、月影は街を診る

全年齢

小説ID: cmneicfpj000g01rvmtlfy88x

1章 / 全10

「次の方、どうぞ」 綾香は診察室の椅子に腰を下ろした患者へ、いつもの柔らかな笑みを向けた。白衣の袖を整える仕草まで丁寧で、急かす空気が一切ない。だからだろう、朝いちばんの外来なのに、廊下にはすでに小さな列ができていた。 「先生、熱は下がったんですけど、咳だけ残ってて」 「なるほど。喉を見せてください。はい、深呼吸も。……うん、肺の音はきれいです。おそらく風邪の名残ですね。薬は少しだけ調整しましょう」 「え、もうわかるんですか?」 「わかりますよ。顔色と声の出方で、だいたい見えます」 綾香がそう言うと、患者は安心したように肩の力を抜いた。説明は簡潔なのに、言葉の端々が温かい。診察が終わるたびに、誰かが 「先生に診てもらえてよかった」 と小さくつぶやく。そのたび綾香は、少しだけ照れたように目元を和ませた。 「次の方、どうぞ」 午前中の診察は途切れることなく続いた。肩こり、腹痛、花粉症、頭痛。どんな訴えにも綾香は真剣に耳を傾け、必要な検査や薬を、相手が納得できる言葉で選んでいく。看護師たちは慣れた手つきで動き、患者たちは口をそろえて彼女を褒めた。 「綾香先生って、本当に外れないよね」 「怖くないのに、ちゃんと頼れるのがすごい」 その声を背に受けながら、綾香は次のカルテに目を落とした。自分の診療が誰かの不安をほどいていくのを見るのは、何度経験しても嬉しい。けれど、昼休みになり、白い照明の下で一人になった瞬間、その満ち足りた気分はふっと薄れた。 スマホを手に取り、勤務記録を確認する。そこに、見覚えのない短い印があった。 夜間対応済み。 綾香は瞬きをした。 「……え?」 声に出してから、もう一度画面を見直す。日付は確かに今日。担当欄も自分の名前だ。だが、昨夜の自分が病院にいた覚えはない。寝落ちするように家で眠ったはずだった。 「どうかしました?」 休憩室の入口から、先輩看護師が顔をのぞかせた。 「いえ……この記録、誰が入れたのかなって」 「さあ。システムの自動反映じゃないですか?」 綾香は曖昧に笑ったが、胸の奥だけが妙にざわついていた。夜間対応済み。丁寧すぎるその一言が、まるで自分ではない誰かの仕事報告のように見えて、指先がひんやりと冷える。 彼女はもう一度画面をスクロールした。記録はそれだけで、余計な説明はない。ただ、何かが確かに進んでしまったような気配だけが、昼の静かな休憩室に残っていた。

1章 / 全10

TOPへ