エラベノベル堂

白衣の朝、月影は街を診る

全年齢

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10章 / 全10

翌朝、机の上に置かれていたのは、いつもの走り書きではなかった。白い便箋が二枚、きれいに重ねてある。上の一枚には見慣れた勢いのある字で、ただ一言。おはよう。 恒一は思わず椅子に座り直した。二枚目をめくると、そこには落ち着いた筆跡で返事があった。おはよう。診察は九時から。寝癖がひどい。 しばらくして、彼女は声を立てて笑った。自分しかいない部屋で、ようやく本当に一人ではないと認めた笑いだった。 白亜ビルの地下で押さえられた証拠は決定的だった。再開発計画は全面的に見直され、幹部たちは次々に立件された。港町はしばらく騒がしかったが、やがて潮が引くように日常へ戻っていく。外来にはいつもの顔ぶれが並び、恒一はいつものように話を聞き、薬を出し、時々薬より効く冗談まで添えた。違うのは、昼の彼女がもう夜を敵と思わなくなったことだ。 休憩室で神崎が缶コーヒーを差し出してきた。 「結局、白野先生は一人だったのか二人だったのか、どっちなんだ」 「診療報酬的には一人でお願いします」 「そこは増えないのか」 「増えたら勤務表が地獄です」  二人で笑う。神崎は何かに気づいている顔で、それ以上は聞かなかった。 夜になると、恒一の机には短い相談メモが置かれるようになった。港の食堂の不審な契約書。古いアパートの怪しい修繕費。昼の恒一が診療で拾った違和感を記し、夜の誰かが要点だけ赤線で囲んで返す。時には逆もあった。夜に集めた情報を、昼の恒一が法的に安全な形へ整え、役所や警察に渡る道筋をつくる。二人三脚というには少し奇妙で、文通というにはだいぶ騒がしい。けれど、前よりずっと息が合っていた。 ある晩、恒一は鏡の前で黒い帽子を被り、ふと呟いた。 「今日は私が先に行く」  鏡の中の自分は、医師の穏やかな目をしたまま、口元だけ少し挑戦的に見えた。返事はない。だが机にはすでに新しいメモがある。裏口は滑る。あと、帰りに牛乳。 恒一は帽子を押さえて吹き出した。緊張感の置き場がおかしい。だが、そのおかしさが今は心地よい。 深夜の港を歩きながら、彼女はふと足を止める。波止場のガラス窓に映る自分の影が、街灯の加減で一瞬だけ二人分に見えた。寄り添うように並ぶ、白衣の似合う女と、黒い帽子のよく似合う女。次の瞬間には一つに戻る。けれど恒一はもう、どちらかを消したいとは思わなかった。 町では今も、ときどき噂になる。親切な女医の診察を受けた翌朝、不思議と困りごとが片づいている。夜更けに黒い帽子を見た者がいる。女医は二人いるらしい。いや、双子だ。いや、もっと変な何からしい。 真相を知るのは、たぶん恒一だけだ。そして恒一ですら、全部は知らない。 だからこそ面白いのだと、彼女は最近思う。昼は人を救い、夜は街を守る。どちらも自分で、どちらも少し手がかかる。港から吹く風の中、恒一は足早に角を曲がった。明日の朝、また机の上には何かが増えているだろう。その予感に、もう困るより先に笑ってしまう自分がいた。

検閲済みプロット

夜になると別人格が目覚めて活動を始める。昼は皆に信頼される医者、夜は悪事をひそかに止める謎の潜入者として奔走する女医を描く、二重生活コメディ。

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