警報音は地下駐車場の低い天井に反響し、男たちの怒声をばらばらに砕いた。幹部は舌打ちし、部下に入口を塞げと叫ぶ。だが非常灯の赤い明滅の中では、誰の影も落ち着いて見えない。恒一は携帯を握ったまま一歩下がり、棚の角に背を寄せた。物陰のガラスには、たしかにもう一つの黒い帽子が映っていた。自分と同じ輪郭なのに、自分より先に動く影。 ありえない、と考えるより早く、その影は配電盤の横をすり抜け、開いたままの金庫の扉を蹴って男の進路を塞いだ。鈍い音が響き、幹部が振り向く。恒一も息を止めた。目の前にいる自分ではない誰かは、驚くほど自然な足取りで奥へ誘い込むように走る。町で囁かれていた噂が、悪ふざけではなく形を持って立ち上がった瞬間だった。 女医が二人いる。 胸の奥でその言葉が、妙に静かに沈んだ。怖さより先に、納得が来た。毎朝残されるメモの几帳面さも、夜の大胆な手際も、ひとつの器からこぼれたものでは収まりきらなかったのだ。自分の中にいると思っていた存在は、もしかすると、ずっと外にもいたのかもしれない。 だが考え込む暇はなかった。幹部のひとりが棚の陰から回り込み、恒一の携帯へ手を伸ばす。恒一は反射的に診察鞄を振り上げた。重い角が男の手首に当たり、携帯が守られる。 「それ以上近づかないで。あなたたちが捨てたもののせいで、もう患者が出ています」 声は震えていなかった。昼の自分の声だとわかる。その一方で、視界の端では黒い帽子の影が天井の非常用散水栓をひねっていた。細い水が霧になって広がり、甘い薬品臭がごまかせなくなる。隠すための地下が、告発するための箱に変わっていく。 外でタイヤの軋む音がした。神崎だ、と恒一はなぜか確信した。警察と保健所を連れてくる段取りを、あの人は本当に組んでいたのだ。数秒後、シャッターの向こうで怒鳴り声が上がり、逃げ場を失った男たちの顔色が変わる。幹部は最後まで強がろうとしたが、倉庫の奥に積まれた箱と、撮影済みの帳簿がその言葉を先回りして潰した。 騒ぎの中、恒一はもう一度だけガラスを見た。そこには赤い非常灯に染まる自分の姿しかない。けれど床には、濡れた足跡が二筋、出口の方へ並んで続いていた。ひとつは自分の靴底と一致する。もうひとつは、少しだけ軽く、少しだけ先を急いでいる。 警官に保護されて外へ出ると、雨上がりの夜気が頬に冷たかった。神崎が駆け寄り、恒一の顔を見て力の抜けたように息をつく。 「よかった、生きてる」 「それ、医師への第一声としてはどうでしょう」 「今夜は満点だよ」 彼の肩越し、白亜ビルの非常階段の踊り場に、黒い帽子が一瞬だけ見えた気がした。次の瞬間にはもういない。幻かもしれない。それでも恒一は、胸の内で確かに何かが噛み合う音を聞いた。 自分の中の夜だけでは届かなかった場所へ、もう一つの足音が手を貸した。ならばこの先、追いかけるべき相手は不正だけではない。明日になればまた記憶は曖昧になるかもしれない。それでもきっと、机の上には新しいメモがある。 遅れた。でも悪くなかった。 そんな字が浮かぶ気がして、恒一は濡れた前髪を払い、小さく笑った。
白衣の朝、月影は街を診る
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