非常灯だけが浮かぶ閉鎖区域の前で、綾香は一度だけ息を整えた。会見の熱はまだ体に残っているのに、目の前の扉はそれを許さないほど冷たい。鍵はすでに外されていた。代わりに、誰かが急いで開けた痕跡だけが残っている。 「……逃げ切れると思ったんですか」 低い声が、広い空間に吸い込まれる。手術室の中では、器具棚が半端に開き、床には紙片が散っていた。黒幕の男は、最後の証拠を消すつもりで動いたのだろう。だが、もう間に合わない。 「綾香、右を見て」 頭の奥で、リノの声が短く響く。綾香は反射で身をかがめた。次の瞬間、男が蹴り飛ばしたワゴンが通路を塞ぎかける。昼の自分なら戸惑ったかもしれない。だが今は違う。 「そこ、逃げ道にしたかったんですよね」 綾香は棚の配置を見てすぐに理解した。器具の並び、非常口までの距離、搬入扉の死角。昼に学んだ病院の構造を、夜の機転が一気につなぐ。 「そっちへ回って」 「了解」 返事は自分の口から出たのに、確かにもう一人の自分の気配がある。綾香は男の視線を引きつけるように一歩踏み出し、わざと声をかけた。 「証拠を燃やして終わりのつもりですか。そんな雑なやり方、患者さんに使った隠し事のほうがまだ丁寧です」 男の顔が歪む。怒りで判断を鈍らせた一瞬を、リノが逃さない。 「今」 綾香は滑るように脇へ回り、落ちていたファイルを拾って扉の前へ投げる。男の足が止まり、進路がずれる。そこへリノの導きが重なり、逃げようとした先はすでに塞がれていた。 「くっ……」 「終わりです」 綾香が言い切ると、男は初めて沈黙した。隠しきれない焦りだけが肩に残り、もう一歩も動けない。 そのときだった。視界の端がふっと揺れて、手術室の白い光が、まるで水面みたいにほどける。綾香は息を呑む。床も棚も、男の輪郭さえ遠のいていく。 「待って、これって……」 返事はない。代わりに、胸の奥から静かな感覚が広がった。怖くて、でもどこか懐かしい。 幼い頃、暗い部屋で泣きそうになった自分。誰にも頼れず、守られたいのに、守る側に立たなければと思い詰めた自分。その震える気持ちが、ひとつの形を取る。 リノは、最初から別の誰かではなかった。 「私は……あの時の」 言葉が続かない。喉の奥が熱くなる。 「そう。あなたが作った」 リノの声は、もう外からではなく内側から響いた。乱暴じゃない。責めてもこない。ただ、当然のようにそこにいる。 「守るために必要だったの。怖さに飲まれないように、責任を投げ捨てないように」 綾香は目を見開いたまま、ゆっくりと胸元を押さえた。昼の自分が積み上げた優しさと、夜の自分が削り出した強さ。その境目が、今ようやく一本につながる。 「じゃあ、あなたは……」 「守るための、もう一人」 その答えに、綾香は息を止めた。男の荒い呼吸だけが遠くで聞こえる。けれど、もう彼は届かない。手術室の白い光の中で、綾香は初めて自分の影を見失わなかった。
白衣の朝、月影は街を診る
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