エラベノベル堂

零度の街で、まだ名のない鼓動

全年齢

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1章 / 全10

東京の朝は、もう人の表情より先に数字で始まる。駅の改札を抜けるたび、街路樹の根元に埋め込まれた表示板が通行人の感情値を淡く照らし出し、今日の機嫌や協調性や集中度を色分けして流していた。誰もがそれを天気予報のように受け取り、良好な数値の者には安心し、低い者からは少し距離を置く。その習慣が始まって十年あまり、東京では感情が心の内側にあるものではなく、生活の外壁に貼られた成績表になっていた。 蓮の端末にも、同じアプリが入っている。だが画面の中央に出る値は、朝でも昼でも夜でも、雨の日でも晴れの日でも、きまって0だった。 無反応判定。 その四文字を見慣れすぎて、いまさら腹も立たない。ただ、周囲が勝手に決めつける。嬉しくないのだろう、悔しくないのだろう、誰にも関心がないのだろう、と。大学四年の蓮は、就職活動のたびに面接官の視線が自分の顔ではなく端末の表示に落ちるのを知っていた。質問に答える前から、評価は半分終わっている。感情の起伏が乏しい人材は、対人適性に難あり。やわらかな言葉でそう言い換えられ、いくつもの不採用通知が届いた。 けれど本当は、朝の高架下で鳩がパンくずを奪い合う様子を見れば少し笑いたくなるし、夜更けのコンビニで温かい缶コーヒーを握れば、胸の奥がほどける気もする。古い映画のラストに目頭が熱くなったこともある。ただ、それらはすべて数字にならない。蓮の感情は水面の下で揺れているのに、アプリは凍った湖面だけを見て、何もないと判定するのだった。 その日、蓮は企業説明会の帰りに、新宿駅南口の広場で足を止めた。大型広告には、感情値最適化サービスの宣伝が映っている。笑顔の男女が、好感度の高い波形を整えながら、恋愛も就職も思いのまま、と軽やかにうたっていた。蓮は視線をそらし、自販機で水を買おうとした。ところが、認証が一瞬詰まり、隣にいた女性の端末と表示が重なった。 彼女はすぐに一歩引いた。ベージュのジャケットに、きちんとまとめた髪。画面には、ほとんど教科書のように整った感情値が並んでいた。安心感、共感性、社交性、どれも申し分ない。見ただけで、社会に好かれる人間だと分かる数列だった。 すみません、と彼女は言いかけ、そこで蓮の表示を見た。 0。 多くの人がそうするように気まずそうに目をそらすかと思ったが、彼女はむしろ少しだけ首をかしげた。 壊れてるんですか、そのアプリ 蓮は思わず彼女を見返した。憐れみでも警戒でもなく、純粋な疑問の声だった。 最初からずっとです 困りますよね、と彼女は小さくつぶやいた。その言い方が、自分のことのように自然だった。彼女の端末に通知が届き、表示が一瞬だけ揺れる。次の瞬間にはまた、非の打ちどころのない数値へ戻っていた。蓮はその速さに違和感を覚えた。まるで乱れた襟元を指先で整えるみたいに、感情まで形を直したように見えたからだ。 真琴です、と彼女は名乗った。蓮も名を返す。ほんの数秒、それだけのやり取りだったのに、広場の騒音が少し遠のいた気がした。 じゃあ、と真琴は会釈し、人の流れへ戻っていく。背筋の伸びた、きれいな歩き方だった。けれど改札へ向かう途中、彼女は一度だけ振り返った。0の表示を確かめるように、あるいはその向こう側を見ようとするように。 蓮は手の中の水の冷たさを感じながら、その背中が見えなくなるまで立ち尽くした。好まれるために整えられた数字をまとう人と、何も映さない数字をぶら下げた自分。交わるはずのない線が、いま確かに触れた気がした。東京の空は薄いガラスのように白く、そこに映る街の輪郭はひどく明るいのに、どこか息苦しかった。その息苦しさの中で、蓮は生まれて初めて、自分の0を面白がった他人の目を思い出していた。

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