翌週、感情アプリの運営企業が主催する公開説明会の告知が出た。更新による社会的不安を鎮めるため、設計方針と精査基準を説明する場らしい。会場は有明の大規模ホールで、参加者の質問も一部受け付けるとある。地下の集会室では、その知らせが静かなざわめきになった。大半は行ってもはね返されるだけだと言ったが、真琴は告知画面を見つめたまま、隠れないで話すなら、ここかもしれませんと口にした。 蓮はすぐには答えなかった。巨大な仕組みの前で、自分たちの声がどれほど軽いかは分かっている。それでも、黙っているかぎり、0も偽装も運営に都合のいい言葉へ並べ替えられるだけだった。 行きましょう、と蓮は言った。 当日、ホールの入口には認証ゲートが何重にも並び、来場者の感情値が天井のスクリーンへ平均化されて映し出されていた。安心、納得、信頼。そんな単語が淡い光で脈打っている。真琴は補正を切った端末を鞄に入れたまま歩いた。緊張がそのまま表示されているはずだが、もう伏せなかった。蓮の0も、ゲートで一瞬だけ係員を困らせたものの、例外対象として通された。 壇上では、整った笑顔の担当者が更新の正当性を語っていた。例外値の排除ではなく救済です、不正調整の是正は公平性の回復です。その言葉は正しく磨かれ、角がなく、だからこそどこにも引っかからずに滑っていく。蓮は、あの地下室で聞いた声の重さを思い出していた。内定を失った学生の沈黙も、親権審査で不利になった男の乾いた目も、この壇上の言葉には最初から含まれていない。 質疑の時間になり、真琴が立ち上がった。周囲の視線が集まる。マイクを握る手が少し震えていた。 私は長いあいだ、好かれる数値を作って生きてきました。発覚したら信用を失うのも分かっています。でも、そうしないと社会の入口に立てなかった人間もいるんです 会場がざわつく。真琴は続けた。 あなたたちは人の感情を見えるようにしたと言う。でも実際には、見やすい形だけを本物として扱ってきた。乱れたものや測れないものを、価値が低いみたいに押しやってきた。その結果を、救済と呼べますか 担当者は一瞬だけ言葉を失い、それでも規定通りの口調で答えようとした。そこへ蓮が立ち上がった。 僕の感情値はずっと0です。でも、欠けているわけじゃない 静まり返った空気の中で、自分の声だけがやけに素朴に響く。 うれしいことも、傷つくこともある。数字に出ないだけです。出ないものをないことにされた人が、ほかにもいる。それを先に直すべきじゃないですか そのとき、会場後方の誰かが拍手した。ひとつ、またひとつ。大きな波にはならない。だが、たしかに音は広がった。スクリーンには依然として平均化された安心が流れているのに、客席にはそれと違う温度が生まれていた。運営側は予定時間を理由に質疑を打ち切ったが、帰り際、何人もの来場者が二人を振り返った。警戒だけではない、測りきれないものを前にした戸惑いの目だった。 ホールを出ると、夕暮れの湾岸の風が強かった。真琴は深く息を吸い、少し笑った。 怖かったです 僕もです でも、と真琴は言いかけて、言葉の代わりに蓮を見た。その視線だけで十分だった。蓮の画面は0のまま、真琴の数値は不揃いに揺れている。それでも二人のあいだには、今日たしかに通ったものがある。世界はまだ変わらない。巨大な表示板も、選別の仕組みも、明日にはまたいつも通り動き出すだろう。けれど数値の外側で交わされた声は、もうなかったことにはできない。蓮は東京の光を見ながら、測れないまま届くものの存在を、初めて街ごと信じてみたいと思った。
零度の街で、まだ名のない鼓動
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