エラベノベル堂

朝霧の湯、悔いは灯りへほどける

全年齢

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1章 / 全10

山あいの温泉街は、夕暮れが早い。谷をわたる風が杉の梢を鳴らし、川音がひときわ深くなるころ、老舗旅館朝霧屋の軒先には、白い湯気に似た薄霧が静かに集まりはじめる。 若女将の澪は、帳場の灯りをひとつ落とし、磨き上げた床に目を走らせた。廊下の先では仲居たちが忙しく夕餉の支度を整えている。土鍋の湯気、出汁の香り、控えめな笑い声。そのどれもがいつも通りで、だからこそ澪は、今夜が特別な条件のそろう夜だと胸の奥でそっと確かめていた。 雨上がりの冷え込み。十五夜を二日過ぎた月。裏山から吹く東の風。そして、離れの裏手にある枯山水の石が、昼のうちにうっすら湿ること。先代の女将から教わった兆しは曖昧で、理屈の通らないものばかりだったが、外れたことはほとんどない。 朝霧屋の別棟のさらに奥、ふだんは竹垣で閉ざされた一角に、その露天風呂は現れる。 地図にはない。増築の記録にも残っていない。けれど条件が重なった夜だけ、渡り廊下の突き当たりにもうひとつ角が生まれ、その先に小さな庭と丸い湯舟が息をひそめるように姿を見せるのだ。 澪がその秘密を知ったのは、先代が床に伏せる少し前だった。覗いてもいい、でも探りすぎてはいけない。見えたものを当てもののように口にしてはいけない。湯気が浮かべるのは傷そのものではなく、本人がようやく触れられる深さまで冷ました記憶だから。先代はそう言って、最後に帳場の鍵より重たく、その役目を澪に渡した。 今夜の宿帳には、ひとり客が三名、夫婦が一組、母娘が一組。どの顔にも旅の疲れがあり、同時に、ここへ来るまで胸の内で長く握っていたものの影があった。澪は人の表情を読むのが得意というより、目をそらす瞬間を見逃さない。 チェックインの際、中年の男は住所を書く手を止め、緊急連絡先の欄だけ妙に丁寧な字になった。くたびれたボストンバッグには、土産店の古い包装紙が何度も巻き直されている。ラウンジの隅では、痩せた青年が爪先で無音の拍子を取りながら、窓の外の雨だれをじっと数えていた。会社帰りらしい女性は、誰にも見られていないと思ったのか、スマートフォンの連絡先画面を開いては閉じ、結局一度も発信しなかった。 そんな小さな綻びが、澪の目には不思議と残る。だが、答えを急がないこともまた役目だった。客は問い詰められに来るのではない。休みに来るのだ。そして、もし湯が許すなら、自分の足で過去に近づくために。 夜半、月が雲間に冴え、離れの廊下に淡い青白さが差したころ、澪はひとりで別棟へ向かった。竹垣の前に立つと、昼にはなかったはずの細い石畳が、露を吸って奥へ続いている。息を整えて一歩踏み入れると、木々の匂いがふっと変わった。新しい湯の匂いではない。昔からそこにあり、今夜だけ思い出された場所の匂いだった。 湯舟の表面では、風もないのに湯気がゆるやかに形を結び、ほどけていく。人の横顔にも、遠い駅のホームにも、夕暮れの台所にも見える曖昧な影。まだ誰も浸かっていないというのに、今夜の湯はすでに何かを待っているようだった。 澪は簾を整え、足元の行灯に火を入れた。ここから先は、客が自分で扉を開ける時間だ。自分はただ、その帰り道が暗くなりすぎないようにしておけばいい。 川音が遠くでひとつ深まる。朝霧屋の長い夜が、静かに始まろうとしていた。

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