最初にその湯を見つけたのは、宿帳で緊急連絡先の欄だけ丁寧に書いていた中年の男だった。夕食後、館内を散歩していた彼は、迷ったように別棟の渡り廊下へ現れ、しばらく竹垣の前で立ち尽くしていた。澪は声をかけず、少し離れた灯りの陰で会釈だけを送った。男はためらいながら石畳の先へ進み、やがて露天に消えた。 しばらくして、湯気が低く揺れた。丸い湯舟の上に浮かんだのは、古びた団地の階段と、閉まりかけた玄関の戸だった。小さな背中がひとつ見え、振り返る気配だけを残して霧にほどける。澪は目を細めた。昼間、その男は売店で羊羹を二棹買ったのに、一つしか包ませなかった。部屋へ届けた茶請けには手をつけず、代わりに紙袋の口を何度も整えていた。誰かに渡すつもりで来て、渡せずにいるのだろう。 男が上がってきたとき、澪は湯上がり処に白湯を用意していた。 「夜は冷えますので」 それだけ言うと、男は少し驚いた顔をして湯呑みを受け取った。沈黙のあと、彼は不意に笑った。 「娘が甘いもの好きでね。もう十年も会ってないのに、癖が抜けない」 独り言のような告白に、澪は頷くだけにした。詳しく尋ねれば、言葉は急にしぼんでしまう。代わりに、明朝駅まで出る最初のバスの時刻だけを伝えた。男は礼を言い、その声には来たときより少しだけ温度が戻っていた。 次に露天へ向かったのは、窓の雨だれを拍子のように数えていた青年だった。細い指先には弦だこがうっすら残り、荷物は小さなケースひとつ。夕餉の席で流れていた箏の演奏に、彼だけが一瞬、息を止めたのを澪は見ていた。 湯気に現れたのは、薄暗い舞台袖と、譜面台に置かれた一枚の紙だった。書き込みだらけの楽譜に、斜めから強い照明が差し、次の瞬間、白い紙面が雨に濡れた舗道のように滲んで消える。青年は長く湯に肩を沈め、上がってきてもなかなか足袋を履かなかった。 「こちらのラウンジに、夜更けまで使える古いピアノがあります」 澪がそう告げると、青年は顔を上げた。 「音、狂ってませんか」 「少しだけ。でも、朝霧屋では昔から、それくらいのほうが弾きやすい方もいるそうです」 青年は初めて口元を緩めた。深夜、帳場にまでかすかな音が流れてきた。整いきらない旋律だったが、途中で止まらなかった。 会社員の女性が露天に入ったのは、日付が変わるころだった。食後も仕事の癖が抜けないようで、資料めいたメモを開いては閉じ、スマートフォンの画面に親指を浮かせたまま、ついに何も送らなかった人だ。 彼女の湯気は、駅前の喫茶店を映した。向かい合う二つのカップ、その間に置かれたまま開かれない封筒。笑っているはずの口元だけが、なぜか遠い。親友と呼べる誰かとの、言いそびれた言葉があるのだと澪にはわかった。昼、彼女は売店で便箋を選びかけ、結局絵葉書に替えていた。長い文ではなく、ひと言から始めたい人の選び方だった。 部屋へ戻る前、女性は帳場に立ち寄り、観光案内の棚から温泉街の絵葉書を一枚抜いた。 「この郵便箱、朝の集荷に間に合いますか」 「ええ、十分に」 受け取った絵葉書の余白には、迷いの跡のように何度もペン先が止まり、それでも最後には、すっと短い一文が書き添えられた。 朝霧屋には、何かを解決してくれる名探偵がいるわけではない。ただ、客が自分の胸の中でほどけかけた糸を、もう一度見失わないよう灯りを置くことはできる。翌朝、澪は出立の支度に追われながらも、それぞれの背に宿るわずかな軽さを見送った。噂はこうして広がっていくのだろう。この宿に泊まると、忘れたはずのものが責めるのではなく、静かに迎えに来るのだと。
朝霧の湯、悔いは灯りへほどける
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