男の名は真崎柊司といった。通された帳場で小箱を膝にのせたまま、彼は坂井に向かって深く頭を下げた。坂井は何か言おうとして、結局、肩に置いた手を一度きつく握るだけだった。 「父は三年前に亡くなりました」 柊司はそう切り出した。遺品の中から、朝霧屋の名前だけが書かれた古い包みと、短い走り書きが見つかったという。渡せなかったものがある。いつか祭りの夜に返してほしい。たったそれだけが残されていた。 露天風呂が現れたのは、彼を待っていたかのようだった。澪は案内し、簾の外で気配を見守る。湯気に浮かんだのは、二十三年前の若い男の背中ではなく、病室の窓辺だった。柊司の父が小箱を開けかけ、しかし閉じる。その傍らで幼い柊司が眠っている。父は町を捨てたのではなかった。残された人生のどこかで返しに来るつもりのまま、機を失い続けていたのだ。 やがて柊司が湯から上がり、小箱を澪へ差し出した。 中に入っていたのは、祭りの企画書でも金目のものでもなかった。古びた録音機と、短い紙片だけだった。紙には、町の人たちの声を残す、とある。先代も坂井も息をのむように沈黙した。木箱の手紙や帳面は、祭りを守ろうとした約束の骨組みにすぎなかった。その中心にあったのは、店の名や役目ではなく、人の声そのものを残すことだったのだ。 菓子店の呼び声、写真館の笑い、玩具屋の口上、橋のたもとで交わされる挨拶。観光のための立派な祭りではなく、この町に生きる人の声を集めて、次の時代へ手渡す。若い父たちはそんな祭りを作ろうとしていた。だが果たせず、箱だけが秘密のように残った。 翌日、祭りの最中、澪は意外な決断をした。木箱も小箱も広場へ持ち出さず、説明の場も設けなかった。代わりに朝霧屋の玄関先へ古い録音機を置き、通る人に一言ずつ吹き込んでもらったのだ。好きな店の名でも、今会いたい相手への言葉でもいい。最初は戸惑っていた町の人々も、やがて笑いながら、照れながら、ぽつりぽつりと声を残し始めた。観光客まで面白がって加わり、子どもは太鼓の真似をし、年寄りは昔の屋号を懐かしそうに呼んだ。 その夜、露天風呂に立った澪は、湯気の異変に気づいた。もう後悔の幻が現れない。代わりに、昼に録られた無数の声が、湯面を渡る風のように重なっていた。先代の姿もある。けれどその顔は、これまででいちばん静かだった。 澪はそこでようやく理解した。露天風呂が待っていた約束は、真実を暴くことでも、失われた計画を完全に復元することでもない。誰かの後悔を町の記憶へ編み直し、次の声が生まれる場所を作ることだったのだ。だから結び目が戻った今、湯は役目を終えたのではない。意味を変えたのだ。 翌朝、別棟の奥にはいつもの竹垣しかなかった。だが澪は不思議と寂しくなかった。帳場の机には便箋が残り、玄関先の録音機には今日も誰かが近寄ってくる。 「一部屋、お願いできますか」 新しい客の声に顔を上げる。澪は微笑み、宿帳を開いた。朝霧屋は秘密を抱える宿のままではなくなった。言えなかった言葉を、今度こそ人の手で渡していく宿として、静かに続いていく。
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山奥の温泉街にある老舗旅館。夜になると宿泊客の『過去の後悔』が湯気の幻として映し出される不思議な露天風呂が現れ、若女将がそれぞれの心の秘密と向き合いながら問題を解きほぐしていく、情感ある連作ミステリー。
