エラベノベル堂

朝霧の湯、悔いは灯りへほどける

全年齢

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9章 / 全10

祭り前日の朝、朝霧屋にはいつもより早く人の気配が満ちた。軒先の提灯を拭く若い衆、仕込みに追われる厨房、坂の下から聞こえてくる太鼓の試し打ち。浮き立つはずの音の隙間に、澪は別の緊張を感じていた。町の人々は木箱の中身を知った。けれど、それをどう受け取り直すかは、まだ誰にも決められていない。 澪は帳場の脇に、小さな机を一つ出した。その上に、客が自由に使えるよう便箋と絵葉書、古い万年筆を並べる。誰に向けてもいい、出さなくてもいい。ただ書いてみるための場所だと、控えめな札だけ添えた。 昼過ぎ、その机の前に最初に座ったのは、数日前に親友へ絵葉書を送った会社員の女性だった。今度は便箋を一枚だけ取り、短い文を書いて、封をせずに澪へ預けた。 「出さなくていいんです。書けたので」 続いて、元音楽家の青年がラウンジの隅の古いピアノに向かった。祭りのざわめきに混じって、昨夜より少し整った旋律が流れ出す。その音につられるように、町の人々も一人、また一人と帳場の机へ立ち寄った。菓子店の主人は宛名のない紙に店の名を書き、写真館の娘は、裏返していた集合写真を今夜表へ向けるとだけ記した。 夕刻、坂井が澪に告げた。 「祭りのあと、町内の寄り合いを開きましょう。昔のままに戻すためじゃない。今の町で、何を残すか決めるために」 澪は頷いた。木箱は過去の証拠ではなく、未来への問いになりつつあった。 夜、露天風呂はためらいなく現れた。もう条件を数える意味は薄れていた。澪が湯舟の前に立つと、湯気はこれまでのように一人の後悔を映さなかった。朝霧屋の門、朱の橋、祭りの幕、開かれなかった封筒、渡せなかった菓子、弾き損ねた楽譜。それらが別々に現れては消えるのではなく、一つの川の流れのようにつながっていく。そして最後に、先代女将の後ろ姿が浮かんだ。 先代は振り返らない。代わりに、その視線の先に今の帳場が見えた。便箋を書く客、小さく笑う若い夫婦、土産の包みを握りしめる中年の男。湯気は静かに告げていた。後悔は消えない。ただ、渡し方を変えれば、別のものになるのだと。 祭りの太鼓が遠くで鳴り始めた。澪は露天を離れ、玄関へ戻る。表には新しい客が一人、旅行鞄を足元に置いて立っていた。三十前後の男で、予約はしていないらしい。だがその顔を見た瞬間、坂井が息をのむ気配が背後で止まった。 男は少し迷うように会釈して言った。 「今夜、一部屋お願いできますか。昔、ここへ来るはずだった者の息子です」 その手には、見覚えのある褪せた紐で結ばれた小箱があった。木箱とは別の、けれど同じ夜から流れてきた荷物。澪は一瞬だけ目を見開き、それから静かに微笑んだ。 朝霧屋の長い夜は、まだ終わっていなかった。むしろここから、ようやく人の手で続きを書き直せるのだと、澪は玄関の灯りの中で知った。

9章 / 全10

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