それから朝霧屋には、どこで聞きつけたのか、似た気配をまとった客がぽつりぽつりと増えた。大げさな評判ではない。傷を治す宿でも、願いをかなえる湯でもなく、ただ一晩、自分の中で長く座り込んでいた影に、静かに名前を与えられる場所。そんな曖昧な言い伝えとして、温泉街の坂道をのぼってくる人が現れるようになった。 澪は以前にも増して、昼のうちの小さな違和を拾うようになった。客の履き慣れた靴底の減り方、食事の箸が止まる瞬間、土産物に触れる指のためらい。答えを決めつけないまま、ただ胸の中に印をつけておく。 ある午後、五十代半ばほどの女性が一人で訪れた。予約名は旧姓で、住所は海辺の町。だが記入した電話番号の下四桁を、彼女は二度も書き直した。部屋へ案内されたあと、館内の写真が並ぶ廊下で足を止め、温泉街の祭りの古い写真だけを長く見つめていた。夕食では煮魚をきれいに食べたのに、椀物の三つ葉だけを残した。郷里の癖ではなく、誰かを思い出す癖だと澪は思った。 その夜、露天の湯気に浮かんだのは、洗濯物が揺れる狭いベランダと、受話器を握った若い女の横顔だった。口は動いているのに、声だけが湯気の向こうへ届かない。やがて小さな子どもの靴が片方だけ転がり、場面は消えた。女性が湯から上がると、目元は赤くはなかったが、肩の力だけが抜けていた。 「このあたりで、海産物を送れる店はありますか」 尋ねられて、澪は駅前の商店を教えた。女性は少し迷ってから、宛先を二つ書けるよう伝票を多めにもらえるかと聞いた。会わないまま季節だけをやり過ごした相手が、一人ではないのだろう。 別の日には、三十を少し過ぎた男が来た。営業職らしい愛想のよさがあるのに、名刺入れだけが空だった。食後のラウンジで新聞を広げながら、求人欄ばかりを折り目で隠して読む。湯気に現れたのは、工場の休憩室、缶コーヒーが二本、そして机の上に置かれたまま開かれない封筒だった。退職を告げる側にも、告げられる側にもなれなかった顔だと澪は見た。 「明朝、川沿いを歩く道はありますか」 男がそう聞いたので、澪は神社へ抜ける遊歩道を教えた。途中に公衆電話が一台残っていることも、ついでのように添えた。翌朝、彼はチェックアウトの際、昨夜よりまっすぐな声で領収書を受け取った。 露天風呂のことを、澪は誰にも説明しない。それでも客たちは、何かを持ち帰る。踏み出すための言葉であったり、すぐには使わない勇気であったり、ただ一通の短い便りであったり。 気づけば、町内の人々まで朝霧屋をそういう宿として見るようになっていた。悩みを当てる若女将がいる、という言い方をする者もいたが、澪は苦笑するだけだった。当てているのではない。客自身がもう答えの近くまで来ていて、湯気はその輪郭をそっと照らしているにすぎない。 そして澪は、ときおり胸の奥に小さな引っかかりを覚えるようになっていた。別々に見える後悔の形が、どこかで同じ方角を向いている気がするのだ。祭りの写真、送れなかった品、開かれない封筒、届かなかった声。まだ名前にはならないその気配を、澪は帳場の灯りの下で静かに抱えたまま、今夜もまた新しい宿帳を開いた。
朝霧の湯、悔いは灯りへほどける
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