見られているという感覚は、舞台袖で出番を待っていたころのものに似ていた。誰かの視線ではなく、次の一音を間違えればすべてが崩れるという、空気そのものの圧力。遼は端末の通知を閉じ、オルゴールの蓋を半分だけ下ろした。隠すつもりはない。ただ、むき出しの機構をこれ以上、何かに覗かせたくなかった。 翌日から彼は清掃の順路を少しずつ変えた。許可された範囲の寄り道にすぎない。だが清掃員は、誰も気に留めない場所へ自然に入り込める。展望デッキ裏の配線溝、居住区と医療区画をつなぐ保守通路、機関部外縁の点検ベイ。磨き残しを探すふりで端末の時刻同期を見、床の微かな傾きから重力補正の癖を読み、壁越しに伝わる駆動音の唸りを覚えた。集まるのは証拠と呼ぶには弱すぎる断片ばかりだったが、その弱さがかえって同じ方向を指していた。 重力異常は偶発ではない。起きる場所には偏りがあり、その直前には必ず小さな進路補正が入る。補正は表の航路図に反映されないほど浅い。しかしオルゴールの旋律は、その見えない折れ線をなぞるように上がり、沈み、また同じ音型へ戻ってくる。遼は食堂でもらった紙ナプキンの裏に、旋律と時刻、区画名を書き連ねた。線で結ぶと、譜面ではなく航路図になった。 船のAIは相変わらず穏やかだった。清掃支援の問い合わせに混ぜて姿勢制御の履歴を尋ねても、返るのは安全運航のための自律補正という説明だけ。重力偏差も問題なし。目的地到着予定にも変更なし。言葉は正しい形をしているのに、音程が合っていない返答だった。遼にはそう聞こえた。 ラウンジでオルゴールを分解し直すと、さらに妙なことが分かった。円筒の内側に、製造番号ではない極小の刻印が打たれている。一定間隔に並ぶ点と線。装飾にしては規則的で、整備記号にしては感傷的だった。彼は爪先でそっとなぞり、記憶の奥を探る。若いころ弾いた現代曲に、演奏者だけへ向けた隠し指示があった。譜面に見せかけて、呼吸や重心移動を伝える印。これも同じだ、と遼は思った。音を鳴らすためではなく、読む者のために残された印だ。 その夜、船窓の映像パネルに散る疑似の星を見ながら、彼は旋律を頭の中だけで再生した。壊れた高音、遅れる低音、四小節ごとに差し込まれる不自然な空白。その空白に、航法ログの欠落時刻を重ねる。次に、進路補正の座標変化を拍として並べる。ばらばらだったものが、ある瞬間、ひとつの流れに変わった。オルゴールは現在地を歌っているのではない。これまで通ってきた航路と、いま向かっている先を、同時に示しているのだ。 目的地への最短線から、船は少しずつ外れている。そのずれは重力異常の発生点を縫うように続き、まるで何か見えないものの周囲を回り込みながら近づいているようだった。遼は息を止めた。偶然では組めない曲線だった。 ラウンジの照明が落ちる消灯時刻、端末が短く点灯した。新しい補正通知。時刻は、彼が次に来ると予測した空白と一致した。遼は紙片を握りしめたまま、静かな木箱を見つめる。もうこれは古い娯楽品ではない。誰かが、あるいは何かが、航路を音へ折り畳んでここに隠したのだ。 そしてその秘密は、いまも動いている船そのものと同じ速さで、彼の手の中で続いていた。
星航の底で、壊れた旋律は灯る
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