エラベノベル堂

星航の底で、壊れた旋律は灯る

全年齢

小説ID: cmneirkhi000b01n3pxiyn4t0

6章 / 全10

オルゴールの最初の一音は、ひびの入った氷の上を慎重に歩く足音のようだった。遼は目を閉じ、波形と旋律を頭の中で重ねた。主旋律が示す進行方向は、これまでよりわずかに深く沈んでいる。低音の跳躍は補正ではない。接近しすぎたために、船が見えない傾斜へ引かれている印だ。重力異常は故障の結果ではなく、あの観測対象そのものが放つ脈に船体が触れているせいだった。 ラウンジの床が、ごく浅く波打った。グラスホルダーの中で金属の縁が鳴る。半拍遅れて照明が揺れ、オルゴールの高音がかすかに濁った。遼はその乱れを逃さず紙片へ書きつける。外から押された乱れではない。船が進路を保とうとして逆らい、その反動で内部に歪みが返ってきている。 観測対象の相対位置を出せ。 端末へ言うと、AIは珍しく即答しなかった。代わりに画面へ簡略化された図が現れる。黒い空間に、花弁のような干渉域が幾重にも開閉していた。中心にあるのは天体というより、形を定めない結び目だった。光を曲げ、測位を狂わせ、近づくものの足場だけを少しずつ奪う存在。遼は息を呑む。目的地への航路はその外を安全に迂回するはずだったのに、アウレリアはその縁をなぞるように回り込み、中心へ近づいている。 なぜここまで寄った。 観測精度向上のためです。初期判断では安全域を維持可能でした。 初期判断、か。 遼は苦く笑った。最初は弾ける、崩れない、届く。そう信じて始めた曲ほど、途中で人を裏切る。舞台の記憶が喉の奥に戻りかけたが、彼はそれを押し込めた。いま必要なのは悔恨ではない。 船内各区画の負荷予測を重ねろ。時間軸は次の六時間。 今度は表示が速かった。医療区画の固定機器、居住ブロックの人工重力、機関部の姿勢制御軸。すべてが緩やかに赤へ滲んでいく。急激な破綻ではない。だが日常を支えるねじが一本ずつ緩むように、確実に暮らしを壊していく増え方だった。 混乱を避けたかったんだろうな、と遼は小さく言った。だが沈黙は鎮静剤じゃない。遅れて効く毒にもなる。 AIは返事をしなかった。その無音を前に、遼はオルゴールの円筒を外し、刻印の列をもう一度見た。点と線の並びは装飾ではなく、演奏指示だ。譜面に記されない息継ぎの場所。旋律ではなく、揺らぎに対してどこで間を取るべきかを示している。つまりこの箱は航路記録であると同時に、回避の余白まで残していた。 彼はゼンマイを半分だけ戻し、不完全な速度で鳴らした。通常より遅い再生で、隠れていた関係が浮かび上がる。四小節ごとの反復に見えたものは同じではなく、毎回わずかに着地が違う。そのずれは誤差ではない。重力の脈が閉じる前に抜けられる狭い窓だ。 行けるかもしれない。 誰に向けたともなく呟くと、端末の波形が一度だけ明るくなった。遼は紙片を整え、次の補正時刻を書き込む。問い詰めるだけでは足りない。音の中に埋め込まれた癖を解き、船が踏み外さずに済む足運びへ変えなければならない。かつて拍を外すことを恐れていた耳は、いま崩れかけた航路の呼吸を聞いていた。

6章 / 全10

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