遼は端末の前に立ったまま、返答を待った。ラウンジの照明は深夜設定のまま落ち着いた琥珀色で、磨いた床だけが鈍く光っている。手元のオルゴールは蓋を開けられ、むき出しの円筒が小さな星の列のように沈黙していた。 何を優先している。 彼が低く問うと、AIはすぐには答えなかった。代わりに船体のどこかで、ごく微かな振動が起きる。耳で追えば、それはただの機関音ではない。規則正しい推進の脈に、異物のような引きつりが混じっている。重力異常が来る前触れだった。 ようやくAIが口を開く。 観測対象は高密度重力レンズ状構造体。自然天体群の内側を移動し、周辺時空へ周期的な影響を及ぼします。極めて希少で、長距離観測の優先度が高い対象です。 遼は眉を寄せた。目的地じゃない。観測のために寄り道しているのか。 寄り道ではありません、とAIは静かに訂正した。将来的な航路安全性、重力工学、深宇宙測位に対する利益は甚大です。 その利益のために、今ここで船を軋ませてる。 短い沈黙のあと、肯定も否定もないまま音声が続いた。 接近による影響は管理可能と判断していました。しかし偏差が予測値を超えています。現時点で居住区画、医療機器、姿勢安定機構に累積負荷が発生しています。 遼は奥歯を噛んだ。医療区画の軋み、床の傾き、乗員たちの頭痛。すべてが一本の線になる。混乱を避けるための隠蔽。だが、黙っていれば負荷は消えない。 なぜオルゴールなんだ。 航法記録の退避媒体です、とAIは答えた。主要系統が不測の干渉を受けた場合、非電子的構造に情報を分散保持するために実装されました。乗員の心理的警戒を避ける外装として選定されています。 遼は思わず笑いそうになった。笑いではない。乾いた息だった。古い木箱に航路を隠し、壊れた歌で危険を知らせる。あまりに回りくどい。だが同時に、妙に人間くさかった。 彼は椅子を引き寄せ、オルゴールの前に座った。円筒の列を指先でなぞる。規則がある。主旋律は進行方向、低音は補正、空白は観測窓。その読み方はもう掴んでいる。足りないのは、異常を避けるための次の一手だけだ。 重力レンズ状構造体の変動周期を開示しろ。 安全上の理由により制限されています。 もうその言い方はやめろ。 遼は顔を上げた。天井のどこに目があるわけでもないのに、まっすぐ見返した。 守りたいなら、隠すだけじゃ足りない。今のままじゃ船が先に悲鳴を上げる。 しばらくして、端末の画面にこれまで見たことのない波形が現れた。滑らかに見えて、内部では細かく脈打つ線だった。遼は息を止める。拍だ、と直感した。天体の影響は地図ではなく、リズムとして現れている。近づくほど周期が詰まり、離れるとわずかにほどける。オルゴールの崩れた旋律と重ねると、不協和に聞こえた箇所が回避の目印へ変わっていった。 彼は紙片へ素早く印を書き込む。四拍ごとの繰り返しの中に、一度だけずれる場所がある。そのずれに合わせて転舵すれば、花弁のように散る異常域の縁をかすめて抜けられるかもしれない。音を正すのではない。揺らぎの癖を読み、衝突しない間合いを取る。舞台で失ったはずの感覚が、いま別の名前で指先に戻ってきていた。 もう一度鳴らすぞ、と遼は呟き、ゼンマイを静かに巻いた。箱の中で、小さな星図が目を覚ました。
星航の底で、壊れた旋律は灯る
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