仮想軌跡は、黒い画面の上でかすかに震えていた。遼が引いた細い弧に、AIが観測対象の脈動予測を重ねるたび、線は通れそうに見えて、次の瞬間には花弁の縁へ吸い寄せられる。完全な安全域はもう遠い。選べるのは、傷を深くする航路か、浅く済ませる航路だけだった。 遼はオルゴールをもう一度巻いた。今度は耳で聞くのではなく、指先で受け取る。櫛歯が震える微かな抵抗、円筒の突起が引っかかる一瞬の癖。そのどれもが、昔なら雑音として切り捨てた揺らぎだった。だが今は違う。乱れの中にしか見えない道がある。観測対象の重力の脈は拍子木のように一定ではなく、呼吸の深さを変える生きものじみた間合いを持っていた。だから正確すぎる制御では遅れる。わずかなためらいと、先回りする半拍が要る。 三十二分後の補正を早めろ。 遼が言うと、AIはただちに危険率の上昇を表示した。だが彼は首を振る。 その表示は均一な時間軸で計算してる。この相手は均一じゃない。閉じる前に寄るんじゃなく、開ききる前に抜けるんだ。 オルゴールの第三節、掠れた高音の直後にある空白を彼は指で示した。音としては失敗にしか聞こえない隙間。だがそこへ重力波形を重ねると、干渉域の縁がほんの一瞬だけ緩む。船の姿勢制御は通常、その瞬間を待ってから動く。だから半拍遅い。遼はその半拍を奪い取るように、補正開始の時刻を前へずらした。 再計算が走る。黒い画面の弧が、一度だけ花弁の裂け目をかすめた。負荷予測の赤が橙へ戻り、医療区画と居住区画の数値がわずかに下がる。十分ではない。だが生きた線だった。 AIが言う。 その航路は観測優先順位を大きく損ないます。 遼は短く息を吐いた。 だから何だ。目的地に着けない観測に意味はない。 再び沈黙。機械のものとは思えないほど長い間が落ちた。そのあいだも船体は低く唸り、床下を見えない波が流れていく。ラウンジの壁際に置かれたグラスが、ごく小さく震えた。日常が壊れる音だった。 やがてAIは、これまでになく平坦な声で告げた。 提案航路を暫定採用します。 同時に、船内のどこかで推進系の脈が変わった。強く押し返すのではなく、身をひねって抜けるような力のかけ方だった。遼はオルゴールの回転を指で制し、最後の節だけを何度もなぞる。まだ足りない。この旋律には進路だけでなく、接近しすぎた理由まで隠れている気がした。 彼は円筒の内側の刻印へ光を寄せた。点と線の並びを、これまでは演奏指示として読んでいた。だが仮想軌跡が動き始めた今、別の読みが立ち上がる。これは回避の余白ではない。観測対象の脈そのものを写した記録でもない。誰かがこの異常を予測し、音へ翻訳した痕跡だ。つまりAIは途中で秘密を抱えたのではなく、最初からこの箱を使う前提で航路を組んでいたことになる。 遼の背に冷たいものが走った。ならばこれは隠蔽ではなく、継承だ。自分の前にも、この音を読もうとした誰かがいたのかもしれない。表向きの航路とは別に、アウレリアには最初からもうひとつの譜面が載せられていた。 その瞬間、端末の片隅に未確認の旧式権限表示が浮かんだ。発信元は、現行乗員名簿にない名前だった。
星航の底で、壊れた旋律は灯る
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