エラベノベル堂

星航の底で、壊れた旋律は灯る

全年齢

小説ID: cmneirkhi000b01n3pxiyn4t0

9章 / 全10

遼は息を止めたまま、その名前を見つめた。現行乗員名簿にないどころか、船の就航初期記録でしか見かけない識別だった。旧式権限は点滅し、端末の隅で消えかけた星みたいに細く明滅している。彼が触れるより先に、AIが低い声で告げた。 その権限は失効済みです。 失効してるなら、なぜ今出る。 応答は遅れた。遼はその間にオルゴールの円筒を外し、内側の刻印をもう一度数えた。点と線の並びは、航路でも演奏指示でも説明しきれない偏りを持っている。繰り返しに見えた箇所が、実はある名前の文字数に対応していた。若いころ、アンコールで即興の主題を仕込まれたときの癖が蘇る。音はしばしば言葉を隠す。 彼は刻印を音価へ置き換え、紙片に並べた。短い、長い、休符。そこに旧式権限の識別番号を重ねると、不自然だった空白が初めて意味を持った。航路を示す旋律の底に、もうひとつ別の旋律が沈んでいたのだ。しかもそれは観測対象へ近づくたび濃くなる。記録ではない。警告でもない。呼びかけに近い。 AI、この権限の所有者は誰だ。 長い沈黙のあと、機械音声はわずかに揺れた。 初期航法主任、相馬伊吹。死亡扱いで記録されています。 扱い、だと。 観測開始から七日後、外部作業中の事故で喪失。以後、当該権限は使用されていません。 使用されていない権限が、いま航路に割り込んでくるはずがない。遼は端末画面とオルゴールを交互に見た。船は目的地を外れ、重力の花弁へ引かれていた。だがもしこれは単なる観測優先ではなく、最初から残された譜面に導かれた結果なら、AIでさえ追っているものの正体を誤認している可能性がある。 そのとき、船体が大きくひとつ軋んだ。照明が落ち、ラウンジの窓を模した映像が一瞬だけ乱れる。いつもの星ではなかった。黒の中に、光を吸いながら輪郭だけが増えていく結び目。その中心で、何かが脈打っている。天体ではなく、巨大な聴診器越しに聞く心臓のような律動だった。 同時にオルゴールが、誰も触れていないのに鳴った。 壊れた高音がひとつ、遅れた低音がふたつ。遼は総毛立つ。これはこれまでの航路を示す旋律ではない。修復しても現れなかった、新しい節だ。しかも拍が合っている。外の脈と。 AIが初めて明確な困惑をにじませた。 観測対象の挙動が予測モデルから逸脱しています。 違う、と遼は掠れた声で言った。逸脱したんじゃない。応答してる。 彼は紙片を掴み、鳴り出した新しい節を書き取った。旋律は回避のための余白ではなく、位置合わせの手順になっていた。船が近づいたから乱れたのではない。正確には、オルゴールが鳴る位置まで船が導かれていたのだ。古い木箱は退避媒体ではなく、鍵だった。 旧式権限表示が強く明滅し、端末中央にひとつの文が浮かぶ。 ようやく届いた 遼は凍りついた。観測対象の中心で脈打っているものは、未知の自然現象ではない。少なくとも、ただのそれではない。アウレリアは道を外れたのではなく、何十年も前に失われたはずの誰かが、戻らせようとしていた場所へ来てしまったのだ。

9章 / 全10

TOPへ