エラベノベル堂

灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ

全年齢

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1章 / 全10

夜の湿り気が障子の桟に細く絡みつき、油皿の火がひとつ、息を潜めるように揺れていた。榊原透真は、そのかすかな明滅を眺めながら、火鉢の灰に埋めた香炉の口を見つめていた。白い煙は、ほとんど見えぬほど細く立ちのぼり、途中で迷うように揺れ、やがて天井近くでほどけてゆく。かつての透真なら、その筋の一本ごとに潜む香木の癖を言い当てただろう。甘みが先か、渋みが遅れて来るか、海を越えた木か、山で眠った木か。今はもう、それができない。 三年前の冬、ある香合わせの席で倒れて以来、彼の鼻は沈黙した。風呂の薪の匂いも、朝に炊く粥の湯気も、梅がこぼれる庭先も、何ひとつ届かない。ただ世界から色のひとつだけが剥がれ落ちたような不自然さだけが、いつまでも残った。将来を嘱望された若き香術師。そう呼ばれたのも、遠い他人事のようである。今の透真は、師の残した離れに住み、頼まれれば香炉の手入れをし、古い香木の目利きだけを細々と請け負う半端者にすぎなかった。 その夜、透真は亡き師匠、篠崎宗玄の遺品を改めて繰っていた。宗玄が病で急に世を去ってから、ひと月あまり。弟子仲間も旧知の客もひと通り形見分けを済ませ、残ったものは大方見尽くしたはずだった。それでも奥の長持の底板がわずかに浮いているのに気づいたのは、雨で木が鳴いた拍子だった。 薄板を外すと、油紙で包まれた小さな冊子が出てきた。綴じ糸は古びていたが、紙の端に擦れは少ない。人目を避けてしまわれたものだとすぐ知れた。透真は灯りの下で、それを静かに開いた。 中には香譜が並んでいた。沈香何分、丁子幾粒、白檀をいかほど。書きぶりはたしかに宗玄のものだ。だが、奇妙だった。配合は整っているのに、季節も趣向も噛み合わぬ。花の宴にしては重く、弔いにしては軽い。客の身分に合わせるにはあまりに尖り、勝負の席に出すには含みがなさすぎる。宗玄ほどの人が残す記録にしては、どれもどこか肝心なところだけ外している。 透真は一頁ごとに指先で紙をなぞった。墨の濃淡、書き急いだ箇所、行間の妙な空き。ふと、一枚だけ他より薄い紙が綴じ込まれているのに気づく。そこには香材の名ではなく、月齢のような丸印と、町名を崩したような短い文字が散っていた。 香譜ではない。 そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。 宗玄は生前、香りは鼻だけで追うなと言っていた。煙の立ち方、灰の崩れ、席にいる者のまばたきひとつにも、調合した者の心は出る。香は人に届いて終わるのでなく、人の内でほどけて、初めて姿を見せるものだと。その教えを、透真は鼻を失ってからなおさら苦く思い返すことが増えた。 宗玄の死も、どこか腑に落ちなかった。病とされたが、最期の数日は誰にも調香場へ入らせず、見舞いに来た者の名を聞くたび、珍しく顔を曇らせていた。葬いの日、香術師たちのあいだに流れていた静かなざわめきも、透真の耳にまだ残っている。悼む声に混じって、何かを確かめ合うような気配があった。 冊子を閉じると、外で下駄の音が止まった。こんな更け方に訪ねる者は少ない。透真が身を起こすと、戸口の向こうから低い声がした。 「起きているな、透真。火を借りたい」 旧知の声だった。宗玄の友であり、今は町でも指折りの香術師として知られる織部清胤。その名を聞いたとたん、透真は無意識に冊子を袖の下へ滑らせていた。 火を借りたいだけの声ではなかった。雨上がりの闇の向こうで、何かがこちらを窺っている。透真は香炉からのぼる見えぬ煙の行方を目で追いながら、師の遺した不可解な頁が、ただの記録では済まぬことを悟りはじめていた。

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