エラベノベル堂

灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ

全年齢

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2章 / 全10

織部清胤を離れに通すと、男は濡れた羽織の裾を軽く払い、火鉢の前で膝を折った。宗玄よりひとまわり若いはずなのに、目元の静けさだけは歳月を余計に重ねたように見える。透真は炭を寄せ、火箸で赤みを整えた。清胤は礼を言いながらも、部屋の中をさりげなく見回していた。探しているのは火ではない。そのことだけは、匂いを失った透真にもはっきりわかった。 「遺品は片づいたか」 「おおかたは」 「宗玄殿は晩年、妙な覚え書きをつけていた。もし見つけたなら、弟子ひとりで抱えるには重い」 透真は答えず、香炉の灰に落ちた細い筋を見た。さきほどまで真っ直ぐだった灰が、清胤の言葉のたび、ごくわずかに震えて崩れる。声色は穏やかでも、相手は確かに急いている。透真は冊子のことを伏せ、 「まだ古道具ばかりです」 とだけ返した。清胤はそれ以上踏み込まず、持参した小さな香包を火であぶり、立つ煙をしばらく眺めて帰っていった。 翌朝、透真は日本橋の香木商、柏屋庄兵衛を訪ねた。宗玄に出入りしていた古参の商人で、材木の乾き具合を指で当てる老人だ。透真が冊子の一頁を写して見せると、庄兵衛は目を細めた。 「この書き付けの並び、香材の順ではねえな。こいつは荷の入る順だ」 沈香、白檀、丁子。記された名は配合ではなく、市場へ入る荷札の並び替えに似ていた。さらに薄紙にあった町名めいた崩し字は、蔵のある辻や舟着き場の符丁だと庄兵衛は言う。透真は冊子を持つ指に力を込めた。宗玄は香譜の顔を借りて、別のものを残していたのだ。 数日後、香術師たちの催しが浅草の料亭で開かれた。春を迎える前の小さな香合わせで、名のある者たちが腕を見せ合う席である。透真は客ではなく、道具方の手伝いとして紛れ込んだ。香りはわからなくとも、煙の癖と人の顔つきなら追える。炉の位置、風の通り道、袖で口元を押さえる癖、ひと口の茶を飲む間。宗玄に叩き込まれた観察は、鼻を失ってからかえって鋭くなっていた。 その席で透真に声をかけたのは、水城玲甫だった。透真と同じ頃に名を上げ、何度も香席で勝敗を争った若き香術師である。細身の顔に皮肉げな笑みを浮かべる男だが、視線の運びは誰より正確だった。 「隠居したと聞いたが、まだ灰の機嫌は見ているらしいな」 「お前こそ、勝ちすぎて退屈している顔だ」 玲甫は喉で笑い、透真の前に使い終えた香炉を置いた。灰の中央が不自然にへこみ、炭の置き方にわずかな癖がある。透真はそれを見て、出した者が本来より早く香を立てようとしたと悟った。焦りか、あるいは合図か。玲甫も気づいていたらしい。 「今夜、同じ手つきが三つあった。しかも勝負と無関係の席でな」 透真は懐から写しを少しだけ見せた。玲甫の目が細くなる。 「日時だ。調合じゃない。これと同じ並びを、庄兵衛の荷帳でも見た」 玲甫はしばらく黙り、やがて低く言った。 「なら、次の朔日の夜だ。深川の蔵で、香木の値を決める内々の寄り合いがある。名目は品定めだが、実際は流れを握る相談だという噂がある」 料亭の奥で、そのとき不意に笑い声が上がった。だが席の空気は少しも緩まない。誰もが香を楽しむ顔をしながら、別の勝負をしている。透真は煙のたなびく先を追い、屏風際で盃を置いた男の指先を見た。清胤だった。彼は談笑の輪の中にありながら、ただ一度、こちらへ目を寄越した。その一瞥だけで、透真は悟る。師の死のまわりにあった曇りは、まだ晴れていない。冊子の暗号は、過去を記すためではなく、これから起こることを告げるための道標でもあるのだと。

2章 / 全10

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