エラベノベル堂

灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ

全年齢

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10章 / 全10

春が深まるにつれ、透真の離れは学び舎のようになった。若い香術師だけでなく、商人や茶人までが、香をどう扱えば人を惑わせず、人を整えられるのかを聞きに来た。透真は誰にも宗玄の隠し紙のことを話さなかった。清胤が宗玄の弟子であったことも、自分の嗅覚を奪った香が師の手によるものだったことも、胸の内に沈めたままにした。ただ、炉の前に座る者たちへは繰り返し告げた。技は人を従わせるためでなく、人が己を見失わぬためにあるのだと。 ある日、会所から正式な使いが来た。改められた香術会所の指南役として迎えたいという、老武家の連署入りの書付である。離れにいた皆は息をのみ、玲甫は面白くなさそうな顔で、だがどこか誇らしげに透真を見た。誰もが、これで決まると思った。 透真は書付を読み終えると、火鉢のそばへ置いた。 「受けません」 座が静まり返る。庄兵衛が目を丸くし、玄路は眉をひそめた。玲甫だけが、すぐには何も言わなかった。 「なぜだ」 ようやく玲甫が問う。 透真は灰をならしながら答えた。 「会所は立て直される。だが、また誰かが上に立てば、いずれ同じことが起こる。名が集まれば、人は名に従う。宗玄も清胤も、その形の中で道を見失った」 師の名を口にした途端、胸の奥に小さな痛みが走った。それでも声は揺れなかった。 「だから、私は席にはつかない。会所の外で教える。嗅げる者も嗅げぬ者も、武家も町人も、望む者すべてにだ。技を囲わない」 それは誰も予想しなかった答えだった。晴れの場で不正を暴いた者が、そのまま頂に立つ。誰もがそう思っていたのだ。だが透真は、差し出された座そのものが、また新しい囲いになるのを見ていた。 数日後、透真は宗玄の離れを閉じた。売るのではない。会所へ渡すのでもない。門を開け放ち、庭へ続く板戸を外し、誰でも出入りできる稽古場に変えた。看板も掲げない。ただ炉と灰と、いくつかの古い香炉だけを置いた。 最初にやって来たのは、名のない町娘だった。病の母を少しでも落ち着かせたいのだと、ぎこちなく頭を下げる。次に来たのは、かつて大寄合では末席にも座れなかった若者だった。さらにその後には、子を亡くした商家の主人、戦を知らぬ若侍、眠れぬ夜を抱えた女が訪れた。透真は一人ずつに、強い香ではなく、火の置き方や煙の逃がし方、部屋の明るさ、言葉を差し挟む間合いを教えた。香術は秘された勝負ではなく、暮らしの呼吸へとほどけていった。 夕暮れ、最後の客を見送ったあと、玲甫が庭先に立って言った。 「結局、お前がいちばん厄介な道を選んだな」 透真は笑った。 「師匠に似たくはないが、弟子ではいたいからな」 玲甫も、ふっと笑う。風が庭木を揺らし、見えない煙の筋が空へ抜けていくような気がした。 香りは戻らない。宗玄の罪も、清胤の過ちも、消えはしない。けれど透真はもう、それらを背負ったまま歩けると知っていた。失った門の先にあったのは、新しい名声ではない。誰のものでもない、小さな火を手渡してゆく仕事だった。 その夜、透真ははじめて宗玄の冊子を火にくべた。白い灰となって崩れる紙を見つめながら、別れを告げるでも赦すでもなく、ただ静かに灰をならす。まっすぐ引いた一本の筋は、どこにも閉じず、そのまま外の闇へ続いていた。

検閲済みプロット

江戸末期を舞台に、刀ではなく『香り』の技巧と読み合いで優劣を競う香術師たちの対立を描く物語。嗅覚を失った主人公が、亡き師匠の残した香譜を手がかりに、香術界に潜む陰謀の真相を追う。緊張感のある対決と、師弟の絆、失った力を別の方法で補いながら成長する姿を中心にした一般向けの時代幻想ミステリー。

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