エラベノベル堂

潮岬の灯へ、十年越しの便り

全年齢

小説ID: cmneirtr5000g01n3tngv0i6s

1章 / 全10

海辺の町で育つと、潮の満ち引きと同じくらい自然に耳へ入ってくる話がある。毎年、夏のはじまりの同じ日に、灯台のふもとへ一通の手紙が流れ着く。誰が出したのかも、どこから来るのかもわからない。それでも町の人はそれを不吉とも吉兆とも言い切らず、ただ古い天気の言い伝えのように受け止めていた。 澪がその話を最初に聞いたのは、小学校へ上がる前、祖母に手を引かれて浜を歩いた夕暮れだった。白い波が足もとを洗い、遠くで灯台の明かりがまだ薄青い空に溶けかけていた。あそこには海の忘れものが届くんだよ、と祖母は言った。手紙も、人の気持ちも、帰る場所を間違えることがあるからね、と。 十七歳になった今年、澪は郵便局の手伝いとして、岬の先の灯台まで手紙を運ぶ役目を任されていた。坂道だらけで、夏は日差しが容赦なく、冬は風が骨まで冷やす。若い配達人が長く続かない仕事だと局長は笑っていたが、澪は嫌いではなかった。海を見下ろす坂を自転車で上るたび、自分が町の見えない糸を結び直しているような気がした。 その日も、朝から潮の匂いが濃かった。七月最初の土曜日。町では古い言い伝えの日だと知っている人が、なんとなく浜辺を気にする日でもある。局で配達を終えた澪は、灯台守の草介老人へ届ける便りを鞄に入れ、岬へ向かった。 灯台の下の浜は、満潮のあとの名残で海藻が黒く帯のように残っていた。自転車を止めた澪は、波打ち際に何か白いものを見つけて足を止める。封筒だった。濡れているはずなのに、不思議なくらい紙は崩れていない。表には宛名も切手もない。ただ、澪へ、とだけ、見覚えのない癖のある字で書かれていた。 胸がひとつ、強く鳴った。 まさか、と思いながらも、澪は封を開けた。潮風が紙の端を揺らす。便箋は一枚きりで、短い文しかなかった。 今年の夏、灯台で起きる出来事を止めなければ、この町の大切なものが失われる。 そして最後に、差出人の名が記されていた。 十年後のあなたより。 澪はしばらく、息のしかたを忘れたように立ち尽くした。冗談にしては手が込んでいる。けれど、誰がこんな真似をするのか思いつかない。幼なじみの真尋ならもっとからかうような書き方をするし、局の誰かが仕掛けたにしては筆跡が大人びていた。何より、紙に触れた指先が妙に冷たく、海から上がったばかりの貝殻を持ったときのような感覚が残る。 背後で扉のきしむ音がして、澪ははっと振り向いた。灯台の入り口から草介老人が顔をのぞかせている。日に焼けて皺だらけの顔は、遠目には岩肌みたいだが、目だけはいつも海面のように静かだった。 来たか、澪。今日は潮が妙だな、と老人は言い、それから彼女の手もとの封筒に目を止めた。ほんの一瞬、表情が止まる。 澪はその変化を見逃さなかった。知っているんですか、と問いかける声は、自分でも驚くほど乾いていた。 草介老人はすぐには答えず、岬の下で砕ける波を見た。知っているというより、待っていたのかもしれん。そう言った声は低く、風に削られた木のようだった。 澪の背筋を、夏の陽気に似つかわしくない冷えが走る。言い伝えは、ただの昔話ではないのかもしれない。灯台は白く黙って立ち、青空の下でその影だけが足もとへ細長く伸びていた。まるでこれから始まる何かを、ずっと前から知っていたみたいに。

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