エラベノベル堂

理科準備室に、失われた青の余燼

全年齢

小説ID: cmneiryh5000i01n35nyx2hrt

1章 / 全10

四月の終わり、山あいの町にある朝霧中学校へ、新しい理科教師が赴任してきた。名札には篠崎 恒一とある。三十前後に見えるその男は、着任式で必要以上に大きな声も出さず、ただ 「不思議なことを不思議なまま終わらせない授業をしたいと思います」 とだけ言った。その一言はどこか曖昧で、けれど妙に耳に残った。 朝霧中は古い学校だった。木枠の窓、季節ごとに軋む廊下、今は使われない温室。町の子どもたちはみな、ここで同じ噂を一度は聞く。裏山には昔、星を落とした井戸があるとか、旧校舎の壁には月明かりで文字が浮くとか。誰も本気にはしない、昔話としての不思議だ。 篠崎はそんな話を笑わなかった。むしろ授業中、空気の流れや光の屈折を説明しながら、 「昔の人は説明できない現象に名前をつけた。たとえば奇跡とか、精霊とか、魔法とか」 と静かに言った。黒板に書かれた魔法の二文字を見て、教室は少しだけざわついたが、彼はチョークを置いて続けた。 「名前が大げさでも、現象そのものは確かにあったのかもしれない。大事なのは、なかったと決めつけないことです」 その言葉に強く反応したのは、科学実験クラブの三人だった。部長の高瀬 由良は観察眼が鋭く、納得できないことを放っておけない。機械いじりが得意な真壁 奏太は、廃材からでも道具を作る手先の器用さを持っている。もう一人の水野 澪は口数こそ少ないが、記録を取らせると異様に正確だった。部員が減って半ば同好会のようになっていたそのクラブに、顧問として現れたのが篠崎だった。 最初の顔合わせの日、篠崎は理科準備室の奥から埃まみれの箱を抱えてきた。古い薬品棚のさらに裏、板で塞がれた隙間に押し込まれていたらしい。箱の蓋には色褪せたラベルで、昭和三十八年度と読めた。 「片付け中に見つけました。捨てる前に中を見ようと思って」 由良が慎重に紐をほどくと、乾いた紙の匂いがふわりと広がった。中には黄ばんだ手帳、欠けたガラス板、金属の輪、石英のように透き通った小さな結晶が入っていた。どれも理科教材の残りに見えなくもない。だが手帳の最初のページに並ぶ文字だけが、妙に場違いだった。 現象記録。光、風、水紋、再現条件未詳。 澪が手帳をめくる。頁のあちこちに気圧や湿度の記録、月齢、聞いたことのない記号、そして走り書きの一文があった。古代魔法とは呼称であり、原理は未解明。 「魔法って、書いてありますよ」 奏太が半ば笑いながら言ったが、その声は少し上ずっていた。由良は結晶を光に透かした。放課後の西日を受けたそれは、ただ透明なだけの石のはずなのに、内部にごく薄い青の筋を浮かべたように見えた。 篠崎は生徒たちの顔を順に見て、 「昔の教師の研究メモでしょうね」 と穏やかに言った。しかしそのわりに、手帳に触れる指先だけが不自然に慎重だった。 「調べてみますか。科学実験クラブらしく、安全に、一つずつ」 準備室の窓の外では、夕方の風に桜の名残が揺れていた。誰も口には出さなかったが、その瞬間、もうただの暇つぶしの部活ではいられないと全員が感じていた。昔話の中へ手を伸ばすような、少しこわくて、ひどく胸の鳴る始まりだった。 そして由良はまだ知らない。この学校に残っていたのが古い記録だけではなく、それを読んだときだけ微かに目を覚ますものまで含まれていることを。篠崎 恒一が、この町に来た理由そのものが、その手帳の続きにあることも。

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