エラベノベル堂

記憶市場の果て、初恋は真実を灯す

全年齢

小説ID: cmneis3yh000k01n31tqmxv1t

1章 / 全10

朝焼けの光が、ガラス張りの高層街を薄く染めていた。ユウトは駅前の記憶市場を抜け、安売りの栄養ゼリーを片手に歩く。通勤客の頭上には、今日の相場が流れていた。幼いころの匂い、卒業式の拍手、家族旅行の夕暮れ。人の心に積もった断片が、ここでは日用品みたいに並ぶ。 ユウトは自分の記憶を、もう何度も売っていた。母の治療費を払うためだ。売るたびに財布は少し軽くなり、胸の奥には説明のつかない穴が増えた。誰と笑ったのか、何に泣いたのか、思い出そうとすると輪郭だけが残る。大切だったはずの感情も、磨耗した紙のように頼りない。それでも母は生きている。だから彼は今日も、空白を抱えたまま働いていた。 その日、市場の片隅でひとつの広告が目に留まった。初恋の記憶、完全保存。流通元不明。最終値引き。ユウトは足を止めた。胸の奥で、失くしたはずの何かが鈍く脈打つ。初恋など、もう名前すら曖昧だった。けれど指先は勝手に震え、気づけば彼は、生活費を削って買い戻しを申し込んでいた。 端末に流れ込んできたのは、眩しい午後の教室だった。窓際の席、風に揺れる髪、笑う少女。リナと呼ばれたその顔を見た瞬間、ユウトは息を呑む。懐かしさより先に、痛みが来た。彼女と交わした短い会話、並んで帰った川沿いの道、手を伸ばしかけてやめた自分。記憶は確かに甘かった。だがその映像の端に、見覚えのない白い建物と、広場に立つ制服姿の職員たちが映り込む。不要な記憶は社会を不安定にする。無機質な標語が、夕焼けよりも鮮やかに焼き付いた。 ユウトは端末を握りしめたまま立ち尽くす。これはただの恋の記憶ではない。失ったはずの過去の奥で、何かが静かに隠されている。街は相変わらず整然と輝いていたが、その美しさが急に、薄い膜のように思えた。彼はまだ知らない。買い戻した初恋が、自分の人生を救う鍵になるのか、それともすべてを壊す入口になるのかを。

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