雨の止みかけた深夜一時、駅前の通りから一本外れた路地は、昼の喧騒が嘘のように静まっていた。シャッターの下りた古い文具店と、看板の消えたクリーニング店のあいだに、そのコンビニはある。昼間にそこを通っても、ただの空き店舗にしか見えない。けれど夜が深くなり、終電の気配まで薄くなるころ、白い蛍光灯だけが唐突に灯るのだと、誰かが噂していた。 篠宮真帆は、その噂を思い出しながら足を止めた。残業帰りだった。スマートフォンの時刻は一時七分。高いヒールはもう足を責めるだけの道具になっていて、明日の朝の会議資料を思うだけで胃のあたりが重い。コンビニの自動ドアは、近づくと音もなく開いた。 店内は驚くほど整っていた。棚には弁当や飲み物、菓子や文房具がきちんと並び、どれも見慣れたものばかりなのに、なぜか生活の匂いが薄い。冷蔵ケースの低い唸りだけが、静けさをさらに際立たせている。そしてレジの横に、一人の青年が立っていた。 店員の制服ではない。白いシャツに黒いカーディガン、名札もない。二十代半ばくらいだろうか。整った顔立ちなのに、印象に残るのは目元の穏やかさだけで、次の瞬間には輪郭ごと忘れてしまいそうな、不思議な佇まいだった。 「いらっしゃいませ」 そう言った声も、作りものめいていないのに、どこか遠い。 真帆は軽く会釈して、棚を回った。何か買うつもりがあったわけではない。ただ、家に帰る前に少しだけ無音の場所にいたかった。ミネラルウォーターと、小さなレモン味のキャンディ、それから目についたカップスープを手に取る。こんな夜に余計なものを買うのは無駄だとわかっていても、今日は温かいものが必要な気がした。 レジには店員らしい端末と、無機質な読み取り台がある。青年は操作をせず、ただどうぞというように目で促した。自動会計なのだろう。真帆は商品を一つずつ置いた。 最初に水が読み取られた。画面に数字が出るはずだと思った次の瞬間、表示されたのは金額ではなかった。 戻らなかった電話 真帆は目を細めた。見間違いかと思ったが、すぐにキャンディを置く。今度は、 笑ってごまかした本音 喉がひやりとした。最後にカップスープを置くと、画面の中央にゆっくり文字が浮かぶ。 行かなかった約束 店の冷気が急に肌へ沁みた。真帆は思わず顔を上げた。青年は驚いた様子もなく、ただ静かにそこにいる。 「何ですか、これ」 声が少し掠れた。青年は画面を見てから、真帆を見る。 「この店では、ときどきそう出ます」 「ときどき、で済ませるんですか」 「困る方は多いです」 他人事のようでいて、突き放してはいない口調だった。真帆は唇を結ぶ。戻らなかった電話。笑ってごまかした本音。行かなかった約束。どれも思い当たることがないと言い切れない。いや、ある。ありすぎるのに、どれを指しているのか考えたくなかった。 数年前、地元の友人から着信があった夜。忙しいから明日でいいと画面を伏せ、そのまま連絡しそびれたこと。上司に平気な顔で大丈夫ですと言い続け、何が大丈夫なのか自分でもわからなくなったこと。誕生日に会おうと言ってくれた相手に、仕事を理由に曖昧な返事をしたこと。 胸の奥に、閉めたはずの引き出しが音を立てて開いていく。 「買えないんですか、これ」 半ば意地のように訊くと、青年はわずかに首を傾げた。 「買えますよ。代金は普通です。ただ、知ってしまうだけです」 真帆は画面を見つめた。何でもない夜食のはずだった。明日のために眠る前の、ただの水と飴とスープ。そのはずなのに、値札の代わりに差し出された言葉は、財布より深い場所を探ってくる。 「……最悪」 呟くと、青年は少しだけ笑った。その笑みには嘲りがなかった。 店の外では、また細い雨が降り始めていた。真帆はレジの前に立ったまま、自分でも忘れたふりをしていた何かが、確かにここにあるのだと初めて認めかけていた。
未明の値札に、ほどける人生
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