真帆がその店を二度目に訪れたのは、三日後の深夜だった。理由は自分でもはっきりしない。ただ、あのレジに浮かんだ言葉が、帰宅後も耳鳴りのように残っていた。自分の部屋でカップスープを飲みながら、行かなかった約束がいつの何を指すのか考え、結局ひとつに決められなかったことだけが、妙に情けなかった。 店はやはり同じ場所に、夜だけ切り取られたように灯っていた。青年は前と同じ位置に立っている。待っていたのか、誰のことも待っていないのか、判然としない顔で 「いらっしゃいませ」 と言った。 その夜、真帆はホットミルクを一本だけ持ってレジに行った。表示されたのは、また金額ではなかった。 遅すぎると思っている連絡 真帆は苦く笑った。 「容赦ないですね」 「飲み物は、冷める前のほうがいいことが多いです」 青年はそれだけ言った。説教のつもりはないのだろう。けれど、その言葉は商品説明の形を借りて、真帆の胸にまっすぐ入ってきた。 そのあとから、真帆は仕事帰りにときどき店へ寄るようになった。毎回長居をするわけではない。水やパン、消しゴム、のど飴。選ぶものは些細なのに、レジは律儀に未練を映した。言えなかったありがとう。捨てたふりをした夢。閉じたままの下書き。真帆は最初こそ身構えたが、青年が答えを押しつけないことに、少しずつ救われていった。 ほかの客もいた。くたびれたスーツの会社員が、参考書と缶コーヒーを持って立っていた夜、画面には遠回りした進路と出た。彼は長く画面を見たあと、青年に 「今からでも遅いですか」 と訊いた。青年は棚の蛍光ペンを一本示し、 「線を引くのは、最初の一ページでもいいと思います」 とだけ答えた。翌週、その会社員は眠そうな顔で英単語帳を買いに来た。目の下に隈を作りながらも、前より少しだけ背筋が伸びていた。 ある夜は、中年の女性が肉まんを二つ持ってきた。表示は渡せなかった謝罪。彼女は小さく舌打ちして、 「今さらよね」 と言った。青年は蒸し器の曇ったガラスを見ながら、 「温かいうちのほうが、受け取りやすいこともあります」 と返した。数日後、その女性は片方だけ肉まんを買い、 「昨日、娘と食べました」 と誰にともなく呟いて出ていった。 ギターケースを抱えた男もいた。エナジードリンクと安いノートをレジに置くと、やめたままの約束と出た。男は笑ってごまかしたが、青年はノートを軽く指で叩いて、 「曲名だけでも書いておくと、戻る場所になります」 と言った。後日、男はケースの肩紐を握り直しながら、始発前の路上ライブに行くのだと照れくさそうに話した。 誰も劇的には変わらない。人生が一晩でひっくり返るわけでもない。それでも、この店を出るときの背中は、来たときよりほんの少しだけ軽く見えた。 真帆自身も、ある朝四時、駅のホームでスマートフォンを握りしめ、長く止めていた相手に短い連絡を送った。ごめん、元気にしてる、とたったそれだけの文だった。送信した瞬間、何かが解決したわけではない。ただ、胸の奥で固まっていた水が、ようやく一滴動いた気がした。 その夜、店に行くと青年はいつもどおり立っていた。真帆は缶のおしるこをレジに置き、表示を見ないまま言った。 「あなた、売ってるんじゃなくて、見てるんですね」 青年は少しだけ目を細めた。 「選ぶのは、その人なので」 静かな声だった。けれど真帆には、その言い方が、まるで自分にも言い聞かせているように聞こえた。
未明の値札に、ほどける人生
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