櫂はレジの前で、しばらく息を整えていた。さっきまで店そのものに見返されている気がしていたのに、今は妙に静かだ。冷蔵ケースの光が床に細い筋を落とし、青白い棚の影がどこまでもまっすぐ伸びている。 「……落ち着け。俺が変なのか、店が変なのか、まだ決めなくていい」 そう自分に言い聞かせた拍子に、足元へ白い紙がすべった。気づかぬうちに落ちていたのだろうか。櫂はしゃがみ込み、拾い上げる。レシートより少し厚い、折り目のついたメモだった。 夜だけ、迷った人を通してください。 櫂は目を細めた。通してください、って何をだ。客を、なのか、それともこの店の何かを。 「誰が書いたんだよ、これ」 独り言は、やはり誰にも届かない。 そのとき、入口のドアが小さく鳴った。完全に開いたわけではない。ただ、誰かが外から触れたような、軽い音だった。 櫂は顔を上げる。 「……客?」 返事の代わりに、もう一度、控えめな電子音。 自動ドアが半歩だけ開き、夜気が細く差し込む。そこに立っていたのは、見知らぬ男でも女でもなく、深いフードを目深にかぶった人影だった。表情はうまく見えない。それでも、迷いだけははっきり伝わってくる。 人影は店内を見回し、次に櫂を見た。 「ここ、開いてますか」 低い声だった。 櫂はメモと入口を見比べ、それからレジ横の表示板に視線を落とす。そこにはさっきまでなかった文字が淡く浮かんでいた。 店番 櫂は乾いた笑いをこぼす。 「……なるほど。俺に聞くのか、それ」 人影は少しだけ首を傾ける。 「夜だけ、通してくれる人がいるって、聞いた気がして」 「聞いた気がする、って」 「変ですか」 「いや、ここ自体が変だからな」 櫂はメモを握り直した。紙はひどく薄いのに、不思議と熱を持っているように感じる。店の外はいつもの深夜のはずなのに、この入口だけが別の世界とつながっているみたいだった。 「……入るなら、勝手にどうぞ。でも、俺もまだ何が何だかだ」 「それで十分です」 人影はそう言って、一歩だけ店内へ入った。 櫂はその背中を見送りながら、レジの前に立ち尽くす。店番を任されたようだ、と頭の片隅で誰かが囁いた気がした。次に何をすればいいのかは分からない。けれど、目の前の客が今まさに迷っていることだけは、はっきり分かっていた。
未明の値札に、ほどける人生
全年齢小説ID: cmneis8gq000n01n3ozv5bwxy
