エラベノベル堂

未明の値札に、ほどける人生

全年齢

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10章 / 全10

それからしばらくして、真帆は異動願いを出した。今の部署を嫌いになったわけではない。ただ、もう慣れた窮屈さの中で器用に息を潜めるのはやめようと思ったのだ。結果が出るまで時間はかかったが、待つあいだにも、彼女は母へ電話をし、先延ばしにしていた友人との食事にも出かけた。どれも劇的な和解ではない。けれど、止めていた時計をひとつずつ合わせ直すような日々だった。 パン屋の青年は、朝の店にすっかり馴染んでいった。小麦粉を頬につけたまま笑うこともあれば、焼き上がりの時間を間違えて悔しそうに眉を寄せることもある。そのたびに真帆は、あの夜のレジの前にいた人と同じ人間なのだと、少し不思議な気持ちで眺めた。彼はもう誰かの未練を言い当てたりしない。ただ、選ばれたパンを丁寧に袋へ入れ、温かいうちにどうぞと言う。その当たり前の一言が、夜の助言よりずっと生身で、だからこそ胸に残った。 初夏の気配が混じり始めた朝、真帆が店を訪れると、入口に小さな張り紙が出ていた。本日、店主交代。思わず足を止める。中では青年が新しい名札をつけ、ぎこちなく頭を下げていた。 「任されるって、本当だったんですね」 真帆が言うと、彼は照れたように笑った。 「まだ、借りてるだけかもしれませんけど」 その言い方に、真帆は胸の奥で何かが静かに結ばれるのを感じた。夜を預かっていた人が、今度は朝の店を預かっている。けれど決定的に違うのは、今の彼が、いつか誰かに渡すためではなく、自分で生きる今日のためにここへ立っていることだった。 会計を済ませたとき、彼は紙袋にひとつ小さなパンを足した。 「おまけです。試作なんですけど」 「また意味深な値札でもつくんですか」 「つきません。ただ」 彼は少しだけ間を置き、焼き色のついた丸いパンを見た。 「中に何が入っているかは、食べてからのお楽しみです」 真帆は笑って店を出た。駅へ向かう途中、気になってひと口かじる。やわらかな生地の中から現れたのは、ほのかに苦いオレンジピールだった。甘さだけでは終わらない味に、真帆は足を止める。ああ、と心の中で小さく声がした。 あの不思議な店が見せていたのは、未練そのものではなかったのかもしれない。選ばなかった人生の痛みではなく、まだ選び直せるという、苦くてかすかな余白だったのだ。 信号が青に変わる。真帆は食べかけのパンを持ち直し、前を向く。背後の店先では、新しい店主になった青年が、次の客へ朝の挨拶をしている。その声はもう、どこにも消えそうではなかった。 そして真帆はふと思う。夜の店は街から消えたのではない。朝の中へ、形を変えて紛れ込んだのだと。誰にも気づかれないくらい普通の顔で、焼きたての匂いをまといながら。予想外なのに、これ以上ないほど自然な結末だった。未練を映す値札はなくなっても、あの店はまだ、人の人生を少しだけ動かし続けている。今度は魔法ではなく、ちゃんと温かい手のひらで。

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深夜だけ開く無人コンビニを舞台に、レジを通すと品物に『未練』が値札として現れる不思議な店で、店番の青年が訪れる客の心残りに寄り添い、人生の向きを少しだけ変えていく温かなヒューマンドラマ。

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