店内の明かりが、ひとつ息をひそめたみたいに暗くなった。 櫂は売り場中央で立ち尽くし、さっきまで見えていた棚の輪郭が少し曖昧になるのを感じた。雨に濡れた空気が入口の隙間から細く入り込み、床の白いタイルを冷やしていく。 「また、何か出るのか」 自分に向けた声は、ひどく頼りない。 そのときだった。 レジの横、何もないはずの通路の先に、人影がにじんだ。背格好も、立ち方も、櫂が知っている誰かに似ている。目を離せないほど似ていた。 「……おまえ」 喉が勝手に鳴る。遠い記憶の底に沈めたはずの面影だ。口元の癖も、少し伏せた視線も、あの日のまま引きずり出されたみたいだった。 人影は何も言わない。ただ、櫂を見ている。 その静けさが、逆にわかった。 違う。 違うのに、似すぎている。 櫂は一歩踏み出しかけて、足を止めた。近づけば確かめられる。確かめてしまえば、また引き戻される。そんな予感が、胸の奥で鈍く疼く。 「本物じゃないんだな」 そう言うと、人影の輪郭がわずかに揺れた。返事の代わりに、店の奥から冷たい風が吹き抜け、値札の残像みたいな淡い光が一瞬だけちらつく。 未練。 その言葉が、見えない板の上に浮かんだ気がした。 櫂は唇を噛む。会えなかった悔しさ。言えなかった別れ。ずっとここに縛っていたものの正体が、今やっと形を持って目の前に立っている。 「……会えなかったことを、ずっと終わりにできなかった」 声にすると、胸の奥の結び目が少しだけ緩んだ。 人影は、まるでその言葉を待っていたみたいに、微かにうなずいた気がした。 「でも、それを抱えたままじゃ、店も俺も先へ進めない」 櫂はレジの方へ視線を送る。青白かった照明の下で、棚は静かに並び、何かを選ぶ余地だけを残している。 「ここは、俺が縛りつく場所じゃない。渡す場所だ」 言い切った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。 相手に似た幻は、驚いたように揺れたあと、薄い霧のように輪郭を失っていく。手を伸ばせば届きそうだったのに、指先が触れる前に夜へ溶けた。 櫂はその消え際を見送って、静かに息を吐いた。 「……そうか。未来へ渡す、か」 誰に言うでもなく呟く。答えはもう、そこにあった。会えなかった悔しさを抱え続けるより、今ここでこの店を次へ渡す。それが、あの人への答えになる。 店の明かりはまだ少し暗いままだったが、櫂の目には、さっきよりずっと遠くまで続く通路が見えていた。
未明の値札に、ほどける人生
全年齢小説ID: cmneis8gq000n01n3ozv5bwxy
