朝の光は容赦がなかった。夜の店のように、迷いにやわらかい輪郭を与えてはくれない。通勤の人波、信号待ちの列、急ぎ足の靴音。そのまぶしさの中で、真帆はときどき、あの白い蛍光灯の静けさを思い出した。それでも不思議と、恋しさより先に浮かぶのは、最後に見た青年の笑顔だった。 新しいパン屋は、駅へ向かう道の途中にある。真帆は前より少しだけ早く家を出るようになった。丸パンを一つ、コーヒーを一杯。そんなささやかな習慣のために朝を調整する自分を、少し前なら想像もしなかった。 青年は店に立つたび、少しずつ表情を増やしていった。焦がしてしまった食パンの話をして肩をすくめたり、発酵の時間が難しいと眉を寄せたり、常連の子どもにメロンパンを勧めて得意げになったりする。誰かを見守るための穏やかさではなく、自分の失敗や喜びにちゃんと揺れる顔だった。 ある朝、真帆が会計を済ませると、青年は紙袋を差し出しながら言った。 「近いうちに、この店を任されるかもしれません」 「すごいじゃないですか」 「怖いですけど」 「それ、前にも聞いた気がします」 青年は笑った。 「今度は、逃げないで怖がれてるので」 その言い方に、真帆も笑った。未練は消えたのではなく、形を変えたのだろう。置き去りにした時間の痛みが、そのまま次の一歩の筋肉になっている。そう思えた。 店を出て歩きながら、真帆はスマートフォンを開いた。友人との約束の日程、母から届いた短い連絡、昨夜自分で作りかけた異動希望の下書き。どれも以前の自分なら、あとで、と伏せていたものばかりだった。けれど今は、朝のうちに返してしまいたいと思う。夜に拾った言葉を、昼の現実へ運ぶために。 ふと振り返ると、ガラス越しに青年がこちらを見ていた。目が合うと、彼は店員としてではなく、街のひとりとして小さく手を振った。真帆も手を上げる。 その瞬間、真帆はようやく理解した。あの無人コンビニが消えたのは、役目を終えたからだけではない。未練を映す店は、ずっと同じ場所にあってはいけなかったのだ。誰かを立ち止まらせるための夜は、いつか必ず、歩き出す朝に譲らなければならない。 駅前の風はまだ少し冷たい。それでも掌の中のパンは温かい。真帆はそれを確かめるように持ち直し、青に近づいていく空を見上げた。もう値札は出ない。だからこそ、自分で名前をつけて進むしかない。 それでいいのだと、朝の街は何も言わずに光っていた。
未明の値札に、ほどける人生
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