櫂がレジの向こうで立ったまま客を見送っていると、店内の静けさがふっとほどけた。入口近くのイートイン席に、いつの間にか若い会社員らしい男が腰を下ろしている。スーツの襟は少し乱れ、片手には持ち帰り損ねた書類の入った薄い鞄。終電を逃した顔だった。 「すみません、甘いの……何かありますか」 声は平静を装っていたが、指先が落ち着かない。櫂は棚を見やり、冷たい缶飲料を手に取った男の視線を追った。レジの表示板が、そこだけ妙に強く瞬いた。 言えなかった一言 櫂は思わず眉を寄せる。飲み物の値札に、文字が重たく貼りついている。 「それ、今じゃなくてもいいんじゃないか」 「え」 男が缶を持つ手を止めた。 「甘いのを買う顔じゃない。眠気を飛ばしたいなら別だけど、たぶん違うだろ」 「……ずいぶん適当ですね」 「客の顔を見てるだけだ」 櫂は視線をそらし、棚の端にあったカップスープを指さした。湯気はもうないが、温かさだけは想像できる。 「こっちのほうがいい。喉を通すだけなら、甘いのより楽だ」 男はためらったあと、苦笑した。 「こういう店員、初めてです」 「俺もこんな店、初めてだ」 その一言に、男の肩が少しだけ落ちる。イートイン席へスープを置くと、男はようやく缶を棚に戻した。指先が離れるたび、値札の文字が揺れる。 「……本当は、帰るつもりだったんです」 ぽつりと零れた声は、小さかった。 「でも、駅で足が止まって。家に着いたら、何か言わなきゃって分かってたのに、言葉が出なくて」 櫂は何も急かさなかった。黙って、スープのスプーンを男の前へ置く。 男は目を伏せたまま、カップの縁を指でなぞった。 「遅いって思われるかな。今さら連絡しても、迷惑かなって」 「迷惑かどうかを決める前に、言ってないことのほうが重いこともある」 「……そんなの、わかってるんですけどね」 男は苦く笑った。だが次の瞬間、その笑いの奥から、ほんの少しだけ息が漏れる。 「帰れなかったのは、怒られるのが怖かったからじゃないんです」 「じゃあ、何だ」 「ちゃんと、謝るのが怖かった。ずっと、後回しにしてたから」 言葉にした途端、男は自分でも驚いたように口を閉じた。櫂はレジ横の表示板を見やる。強く浮いていた文字が、さっきより少しだけやわらいで見えた。 「それで十分だろ」 「十分、ですか」 「少なくとも、最初の一歩にはなる」 男はゆっくりうなずき、カップを両手で包んだ。熱が掌に移る。 「……ちょっとだけ、言えそうな気がします」 櫂はそれ以上は何も言わず、冷蔵ケースの低い音の中で男の横顔を見守った。店の奥では別の夜が静かに息をしている。だがこの席だけは、まだ戻りきれない気持ちを置くための、ささやかな待合室みたいに見えた。
未明の値札に、ほどける人生
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