エラベノベル堂

未明の値札に、ほどける人生

全年齢

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3章 / 全10

その店の夜は、いつからか真帆にとって寄り道ではなくなっていた。残業が早く終わった日でさえ、まっすぐ帰る気になれず、気づけばあの路地へ足が向く。白い灯りの下に立つ青年の姿を見ると、胸のどこかで張っていた糸が少しだけ緩むのだった。 ある晩、真帆は棚の端に置かれた小さなプリンを手に取った。学生のころ、徹夜明けによく食べた安い甘さだ。レジに置くと、画面にはこう出た。 いつかで止めた再会 真帆は息をつき、苦笑した。 「また曖昧ですね」 「甘いものは、理由が言葉になる前に手が伸びることがあります」 青年はそう言って、スプーンを袋に入れた。答えにはなっていないのに、不思議とそれで十分だった。真帆はプリンを受け取りながら、送ったきり返事を待てずに閉じたままの連絡画面を思い出した。あの一通のあと、相手からは短く、元気だよ、とだけ返ってきていた。会おうとはまだ言えていない。けれど、止まっていたものが少しだけ動き始めたのは確かだった。 店にはその夜も、さまざまな人が来た。作業着姿の男が電池を買いに来て、切らしたままの勇気という表示に眉をしかめた。青年は懐中電灯の棚を見て、 「暗いところでは、小さい灯りのほうが足元は見えます」 とだけ告げた。男は黙ってうなずき、帰り際に誰かの連絡先を見つめていた。 制服姿の若い女性は、便箋を一冊持ってきて、出せなかった手紙という文字を見て固まった。青年はペン売り場を指し、 「最初の一行は、宛名だけでも」 と言った。彼女は泣きそうな顔で笑い、細い万年筆を一本追加した。 真帆はレジの横でそれを眺めながら、青年が本当にしていることを少しずつ理解していった。この店は、背中を押す場所ではない。押してしまえば転ぶ人もいると知っているから、ただ立ち止まる場所を渡しているのだ。商品も、言葉も、そのための取っ手にすぎない。 「あなたは、どうしてそんなふうに待てるんですか」 客が途切れたころ、真帆は前から気になっていたことを口にした。 青年はレジの画面を伏せるように指先を置いた。 「急かされると、見えなくなるものがあるので」 「自分のことも?」 その問いに、青年は初めて少しだけ黙った。冷蔵ケースの低い音だけが店内に広がる。やがて彼は、曖昧に笑った。 「僕は店番みたいなものですから」 うまくかわされたはずなのに、真帆にはその笑みが薄いガラスのように見えた。向こう側に何かあるのに、触れればひびが入る、そんな脆さだった。 帰り際、真帆はガムを一つ買った。画面には、飲み込んだままの問いと表示された。思わず顔を上げると、青年はすでに紙袋を差し出していた。 「噛んでいるうちに、形が変わることもあります」 店の外へ出ると、雨は降っていなかった。夜気は冷たいのに、春の匂いがわずかに混じっている。真帆は袋の中のガムを握りしめ、振り返った。ガラス越しの青年は、次の客もいないのに、いつもの位置に静かに立っている。 見守っているようでいて、どこかで誰かを待ち続けている人の立ち方だった。そのことが、なぜだか胸に引っかかった。

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