祖父が亡くなって四十九日を過ぎたころ、私はようやく離れの物置に手をつけた。生前の祖父は無口で、会えば天気の話をするくらいだったのに、残された棚には妙に几帳面な沈黙が積み上がっていた。工具箱、古い地図、黄ばんだ新聞の束。その奥で、小さな革のケースが指に触れた。 留め具を外すと、黒いフィルムカメラが現れた。金属の縁は少しくすんでいたが、掌に乗せると不思議なくらい重心がなじむ。祖父が写真好きだった記憶はない。家族写真も、いつも撮る側は母か父だった。なのにそのカメラだけは、長く誰かに使われてきたものの体温を残しているようだった。 ケースの底には未使用のフィルムが一本、説明書の代わりみたいに薄い紙切れが一枚入っていた。紙には祖父の字で、短くこうあった。 見たものを、急がず信じろ。 意味は分からなかったが、私はその日、片づけをさぼる口実みたいにカメラを持って家を出た。初夏の午後、駅前の商店街は買い物客でゆるく賑わっていた。喫茶店の看板、横断歩道で信号待ちをする人たち、自転車を押す制服姿の高校生。試し撮りにはちょうどいい。巻き上げの手応えは古いのに、シャッターは驚くほど軽かった。 夕方、駅ビルの片隅に残っていた昔ながらの写真店へフィルムを持ち込むと、店主の老人はカメラを見て一瞬だけ眉を動かした。しかし何も聞かず、二時間後に来なと言った。 受け取った写真を店の外でめくった瞬間、背中が冷えた。 一枚目には、さっき撮ったはずの喫茶店の看板が写っている。だが看板の上から植木鉢が落ち、下を歩く女性が振り返っているところまで映っていた。そんな場面は見ていない。二枚目には横断歩道の脇で、配達員の自転車が車道に投げ出され、荷物が散らばっていた。三枚目には商店街の外れの古い雑貨店、その軒先から白い煙が細く上がっていた。 悪い冗談だと思った。現像ミスか、誰かの写真が紛れたのかもしれない。けれど画角も、光の向きも、私がさっき覗いた景色そのものだった。写真の隅には、見覚えのある青い傘の先端まで写り込んでいる。あれは確かに私の横を歩いていた人の傘だ。 半信半疑のまま、私は最初の写真が撮られた場所へ戻った。喫茶店の前には、写真と同じようにベビーカーを押した女性が近づいてくる。胸の奥で何かが跳ね、私は反射的に駆け寄っていた。 すみません、少し離れたほうがいいです。 不審そうな顔をされたが、ちょうどそのとき、上の植木鉢がぐらりと傾いた。私は女性の腕を引き、数歩後ろへ下がる。次の瞬間、鉢は鈍い音を立てて歩道に砕けた。通りすがりの誰かが悲鳴を上げ、店の中から店員が飛び出してくる。女性は青ざめたまま、何度も頭を下げた。 偶然だと言い聞かせるには、心臓がうるさすぎた。私は写真を握りしめたまま横断歩道へ走る。配達員らしい若い男がスマートフォンを見ながら自転車で坂を下ってくるのが見えた。信号が変わる寸前、私は大声で止まってと叫んだ。男は驚いて急ブレーキをかけ、次の瞬間、目の前を右折してきた車が勢いよく鼻先をかすめた。あと一秒遅ければ、写真の通りになっていたはずだ。 残る一枚を見たとき、指先が汗で湿っていた。古い雑貨店の方角から、夕暮れの風に紛れて何かの焦げる匂いが流れてくる。私は祖父の字を思い出した。急がず信じろ。その言葉の意味をまだ掴めないまま、それでも私は商店街の外れへ向かって走り出していた。
残像のシャッター、明日へ余白を残す
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