翌朝の冷たい光が、店の奥まで薄く差し込んでいた。晴人は暗室の赤い灯りの下で、祖父の走り書きが残ったメモを机に広げる。ひとつひとつの文字は丸く、でも妙に急いだ癖があった。 「露出、確認。被写体は、変わる」 「変わるって、何がだよ……」 独り言を漏らしながらも、晴人はカメラを握り直した。昨夜の写真が頭から離れない。あれが偶然なら、説明のつく偶然がほしい。だが祖父のメモには、撮り直せ、現像は急ぐな、といった短い指示が続いているだけだった。 晴人は深呼吸して、店の前の小さな公園へ向かった。朝の空気は少し湿っていて、ブランコが軋む音だけが遠くで鳴っている。狙ったのは、木陰のベンチだった。ごく普通の、使い古された木のベンチ。晴人はそれを撮り、すぐに暗室へ戻って現像機にかける。 現像液の中で、最初はただの影に見えた。だが輪郭が浮かぶにつれ、晴人は息を止める。 「……割れてる」 写真の中のベンチは、座面の中央が大きく裂け、片側の脚が不自然に沈んでいた。今朝の公園では、そんな傷は見えない。少し傾いている程度で、まだ人が座れそうに見える。けれど写真の割れ目は、そこだけ妙に鮮明だった。 「待てよ、これ……」 嫌な汗が背中を伝う。晴人は写真を握ったまま店を飛び出した。公園へ戻る足がやけに速い。胸の奥で何かが鳴り続ける。行かなきゃ、と、知らないはずの確信が叫んでいた。 公園に着くと、さっきまで気づかなかった異音がした。木がきしむような、乾いた小さな悲鳴だ。ベンチに近づいた晴人は、座面に手を置き、思わず顔をしかめる。見た目は平気でも、下から覗くと木材が大きく裂け、今にも崩れそうだった。 「うわ、危な……」 そのとき、公園の入口から小さな子どもが駆けてきた。ベンチの方へまっすぐ向かう。晴人は反射的に手を伸ばした。 「ちょっと待て、座るな!」 強めの声に、子どもがびくりと立ち止まる。晴人は慌ててしゃがみ込み、裂け目を見せないようにベンチの前へ立った。 「ここ、壊れかけてる。危ないから、別のところで遊ぼう」 「ほんと?」 「ほんと。だからこっち来るな」 子どもは首を傾げたが、晴人の真剣な顔に押されるように引き返していく。見送ったあと、晴人はその場に立ち尽くした。心臓がうるさい。手のひらがじっとり湿っている。 写真が当たった。 いや、当たったなんて軽いものじゃない。まだ起きていないはずの危険を、たしかに先に写していた。晴人はベンチと写真を交互に見て、喉の奥で乾いた息を飲む。 「……未来を、写せるのか」 言葉にした瞬間、ぞくりと背筋が震えた。祖父の古いカメラを握りしめたまま、晴人はもう一度ベンチを見上げる。朝の光の中で、それはただの古びた家具にしか見えない。だが一枚の写真が、確かにその姿を変えてしまった。 晴人は震える指でカメラを持ち直し、レンズの先に広がる静かな公園を見つめた。次は何が写るのか、その答えが怖くて、でも目を逸らせなかった。
残像のシャッター、明日へ余白を残す
全年齢小説ID: cmneisd1a000p01n3abhav76i
