エラベノベル堂

残像のシャッター、明日へ余白を残す

全年齢

小説ID: cmneisd1a000p01n3abhav76i

10章 / 全10

夜が明けるころ、雨はようやく細くなった。町には泥の匂いと、濡れた木や鉄の匂いが混ざって漂っていた。堤防脇の道には薄い土が残り、商店街の店先には水をかき出す音が続く。被害が消えたわけではない。床上まで水が入った家もあるし、休業を決めた店もあった。それでも、昨夜のあの濁流の気配を思えば、町がこうして朝を迎えていること自体が奇跡みたいに思えた。 自治会館では、眠っていない顔がいくつも並びながら、誰も昨日までの他人ではなかった。雑貨店の主人が温かいお茶を配り、保育園の母親たちが名簿を照らし合わせ、高校生たちが泥で滑る通路に段ボールを敷いていく。私はその輪の中に立ちながら、自分が何かを成し遂げたというより、ようやく一人で背負わない方法にたどり着いたのだと感じていた。祖父が長い沈黙のあいだに守ろうとしていたのは、たぶんこの形だったのだ。 昼前、写真店の老人が会館に来た。何も言わず、私の手の中のカメラを見て、少しだけ目を細める。私は鞄から最後のフィルムを取り出した。昨夜、空へ向けて切った一枚だけが残っていたはずだった。現像を頼むと、老人は静かにうなずいた。 待っているあいだ、私は祖父のノートを開いていた。最後のページのさらに裏、表紙の内側に薄く押し跡のような文字が浮かんでいるのに気づく。光に透かしてやっと読めた。 終わったら、持ち主を変えろ。 その意味を考えるより早く、老人が戻ってきた。差し出された写真は一枚。私は息を止めた。 写っていたのは空ではなかった。離れの物置だった。朝の斜めの光の中、棚の奥にある革のケース、その手前に立つ若い男の背中。少し癖のある髪、見慣れた肩の線。間違いなく私だ。けれどその私は、今の私より少し幼く見える。祖父が亡くなったあと、最初にあのケースを見つけた日の姿だった。 写真の隅には、まだ誰の手にも渡っていないはずのカメラが、すでにケースの外に置かれていた。 背筋がひやりとした。あの日、私が見つけたから始まったと思っていた。だが違ったのかもしれない。祖父が拾い、祖父の前にも誰かがいて、そして私もまた、次の誰かのために過去へ手を伸ばす輪の中にいただけなのだ。未来を写すカメラだと思っていたものは、本当は人が選び取った道筋を次の世代へ渡すための、長い伝言だった。 私は写真を裏返した。そこには祖父の字で、たった一行だけ書かれていた。 おまえはもう、写らなくていい。 その瞬間、手の中で金属がかすかに鳴った。見下ろすと、カメラの巻き上げレバーが力を失ったように下がり、黒い表面には細かなひびが光っていた。壊れたのではない。長く張りつめていたものが、やっとほどけたような静かな終わり方だった。 私は物置へ戻り、祖父のノートと最後の写真を革のケースに収めた。そして空になったはずのケースの底に、新しい紙を一枚入れる。何度も考えた末、書いた言葉は短かった。 見たものを、急がず渡せ。 ふたを閉じると、外では片づけの声がしていた。被害は残る。これから失ったものを数える日々も来る。それでも、昨日あの雨の中で人が互いに声を渡し合った事実だけは消えない。私はもう、写真の答えを探さなかった。未来は予言の中にあるのではなく、誰かへ差し出した手の先で、何度でも選び直されていく。 午後、会館へ向かう道すがら、ふと振り返る。離れの窓に祖父の影はない。ただガラスに映った自分の背中が、少しだけ祖父に似て見えた。

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戦場カメラマンだった祖父の形見である古いフィルムカメラに、不思議な力が宿っていた。写真には、まだ起きていない災害や事故の気配が写り込む。孫はその写真を手がかりに人々を守ろうとするが、未来を変えるたびに新たな謎と運命の重圧に巻き込まれていく。人を救う責任、祖父が遺した思い、そして未来は変えられるのかというテーマを軸にした、一般向けのサスペンスドラマ。

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