夕暮れが近づくにつれ、雨音はひとつの壁みたいに町を包み始めた。会館の軒先から見える道路は、もう舗装の色より水の色のほうが濃い。私は最後のフィルムを写真店で受け取り、濡れないよう胸元に差し入れたまま分岐へ向かった。店主の老人は紙袋を渡すとき、祖父も最後は写真を見てから動かなかった、とだけ言った。動かなかったのではなく、動きを人に渡したんだと、今なら分かる気がした。 袋の中の一枚を見て、私は足を止めた。堤防脇の道、商店街の入口、高架下の広場。そのどれでもない、町を見下ろせる歩道橋の上から撮られたような写真だった。雨に煙る町のあちこちで、人の列が細く光り、その流れの先々に赤や黄色の雨具が点のように散っている。中央には、やはり私がいた。けれど一人ではない。雑貨店の主人、保育園の母親、消防団の人、高校生らしい背中まで、私の周囲で同じ方向を見ていた。裏返すと、祖父の字で短く書かれていた。正しく当てるな。正しく渡せ。 胸の奥で、これまで張りつめていた糸が静かに切れた。私はずっと、写真を外さないことに囚われていたのかもしれない。事故を止めること、混乱を消すこと、自分が先に見つけること。そのどれも必要だったが、それだけでは足りなかった。未来は当てるものではなく、受け取った人が選び直せるように手渡すものだったのだ。 分岐に着くころには、水は靴の上まで来ていた。避難の放送が重なり、遠くでサイレンが絶え間なく鳴る。人の流れは昨日より多い。それでも立ち止まる人は少なかった。地下道を避けて来た人たちは駅前広場へ、高台へ向かう人たちは商店街を抜ける。私は道路の中央で腕を上げ、声を張った。右は広場、左は坂道、そのまま進まないで。隣で消防団員が同じ言葉を繰り返し、少し離れた場所で高校生が手を振る。雑貨店の夫婦は濡れた段ボールを片づけながら、人の肩をやさしく押して流れを整えていた。 次の瞬間、堤防の低い地点から水があふれ、道の端を一気に走った。悲鳴が上がり、人波がわずかに揺れる。けれど崩れなかった。誰かが前へ押し出すより先に、別の誰かが止まり、手を取り、声を返したからだ。保育園の母親が子どもを抱えて後ろの人へ迂回を伝え、駅員が簡易柵をずらし、会館の職員が空いた道へ誘導する。災害そのものは来た。写真にあった水も光も現れた。それでも町は、同じ方角だけを見てはいなかった。 やがて雨脚が少し緩み、最初の避難の山を越えたころ、私は胸ポケットの中の軽さに気づいた。カメラを取り出すと、濡れた黒い金属は驚くほど冷たかった。試しに空へ向けてシャッターを切る。乾いた音はしたのに、不思議ともう何も宿していないような静けさだけが手に残る。役目を終えたのかもしれないと思った。 水の匂いのする風の中で、私は歩道橋のほうを見上げた。そこには誰もいない。ただ、町のあちこちでまだ人の声がつながっている。祖父はたぶん、未来を消そうとはしなかった。消せない日があると知っていたからこそ、選び直すための余白を残そうとしたのだ。私は濡れた写真を握りしめ、ゆっくり息をついた。明日になれば、泥も片づけも、失ったものの数も見えてくる。それでもきっと、この町は今日の選び方を覚えている。未来は写るものではなく、渡されていくものなのだと、ようやく私も信じられた。
残像のシャッター、明日へ余白を残す
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