エラベノベル堂

残像のシャッター、明日へ余白を残す

全年齢

小説ID: cmneisd1a000p01n3abhav76i

9章 / 全10

潮の匂いが、雨の気配に混じって鼻を刺した。晴人は防波堤の上で足を止め、手の中の写真を見下ろす。最悪の大雨と高波。現像した一枚の端には、波に飲まれかけた警報設備の影が、ぼんやりと焼きついていた。 「ここだ……」 美月が息を切らして追いつく。夜更けの港は人気が少ない。それでも、遠くの倉庫街にはまだ灯りが残っていて、波止場の金属柵だけが白く浮いていた。 「本当に、これで間に合うの?」 「間に合わせるしかない」 晴人は走った。放置された警報設備は、錆びた支柱に覆われ、今にも眠ったまま錆びつきそうだった。手順なんて知らない。けれど祖父のメモと、何度も助け損ねてきた感覚が、指先を迷わせなかった。 「こっち、引いて!」 「え、う、うん!」 美月が支柱を支え、晴人は側面のカバーを開く。硬くこわばったレバーを無理やり押し込むと、機械が低くうなり、次の瞬間、港に甲高い警報が響き渡った。 「鳴った!」 「よし、避難だ!」 晴人の声に、倉庫の方で動きが生まれる。作業員らしき人影が顔を上げ、何事かと辺りを見回したあと、互いに叫び合いながら高台へ向かった。雨脚はまだ弱い。けれど、警報が先に届いたことで、港の空気が一気に変わる。 美月が胸を押さえて息を吐いた。 「来てた人、ちゃんと逃げてる……」 「うん」 晴人はうなずきながら、ポケットの写真を取り出した。ところが、最後の一枚だけが妙だった。白く、まるで光そのものを飲み込んだみたいに焼けている。 「なんで……」 手の中で、紙の縁がひどく熱く感じた。さっきまで写っていたはずの波も、防波堤の線も、何も残っていない。 そのときだった。ジャケットの内ポケットで、古いテープレコーダーが勝手に再生を始めた。雑音まじりの息遣いのあと、懐かしい声が流れる。 『お前が撮る瞬間に未来は決まる』 晴人の背筋が凍った。 「……祖父の声?」 美月が目を見開く。テープはさらにかすれた音を拾い、短く揺れた。 『写る前じゃない。お前が、撮る瞬間にだ』 晴人は写真を握りしめたまま、動けなかった。避難する人の足音、鳴り続ける警報、遠い波のうねり。その全部が、今の言葉に押し流されていく。 「じゃあ、俺は……」 言いかけた声は、潮風に途切れた。白く焼けた最後の写真だけが、暗い港でやけに静かに光っていた。

9章 / 全10

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