エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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1章 / 全10

冷蔵庫を開けた瞬間、昨日まで気にも留めなかった卵が、やけに頼もしく見えた。棚の奥には砂糖とみりん、いつ買ったのか思い出せない小さな容器。綾香は扉を閉めて、ひとつ息を吐く。 「……卵焼き、食べたい」 口に出しただけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。朝ごはんなんて何でもいい日ばかりだったのに、今日は違う。いつもの平らな朝を、ほんの少しだけ特別にしたい。そんな気分だった。 ボウルを出して卵を手に取る。手早く済ませるつもりだったのに、殻を割る音が台所に小さく響いた瞬間、綾香の指先が止まった。ぱき、と乾いた音がするたび、心のどこかも一緒にひび割れていくような気がしたからだ。 「……急がなくていいか」 独り言のようにつぶやいて、綾香は泡立て器を置いた。味噌汁もパンも、今は脇役でいい。今日は卵を雑に流し込むのではなく、ちゃんと混ぜて、ちゃんと焼こう。そう決めると、さっきまでせわしなく動いていた手が、少しだけ落ち着いた。 白身がほどけて、黄身が淡く揺れる。砂糖をひとさじ、みりんを少し。甘さは控えめのほうが好きだったはずなのに、なぜか今日はほんの少し多めにしたくなった。理由はない。ただ、そうしたほうがいい気がした。 フライパンを温めるあいだ、台所には朝の静けさと、熱を待つ金属の匂いが混ざった。油をなじませると、ふっと立つ香ばしさが鼻先をくすぐる。綾香はその匂いを吸い込みながら、まるで誰かの帰りを待つみたいだと、ひとりで苦笑した。 「祖母の作ってたやつ、あんな感じだったかな」 思い出そうとすると、形はぼんやりしているのに、甘い匂いだけが先に浮かぶ。小さな食卓、湯気、優しい手つき。そこまで考えて、綾香は首を振った。今はまだ、思い出に沈むより先に焼き上げるほうが先だ。 流し入れた卵がじゅっと音を立て、表面がゆっくり固まり始める。箸先で端を寄せる。崩れないように、焦がさないように、少しずつ。いつもの自分ならせっかちに済ませていただろう作業が、不思議と丁寧になる。 「今日は、ちゃんと向き合う日ってことかな」 答える人はいない。それでも綾香は、湯気の向こうにぼんやりと浮かぶ焼き色を見つめながら、もう一度だけ卵液を流し入れた。静かな朝の台所で、甘い香りが少しずつ輪郭を持ちはじめていた。

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