エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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1章 / 全10

昼下がりの交差点で信号待ちをしていると、ふいに卵焼きが食べたくなった。腹が鳴ったわけでもないのに、胸の奥にぽつんと灯がともるような感覚だった。甘い香りが先に浮かび、そのあとで、まだ小さかった頃の朝食がよみがえる。祖母が少し冷ましてから皿に置いてくれた卵焼きは、角がやわらかく、口に入れるとほどけるようだった。派手ではないのに、なぜか特別で、あの味だけは長いあいだ忘れずにいた。 家に戻ると、冷蔵庫を開けて卵の数を確かめた。三個ある。だしは半分ほど残っていて、砂糖も塩も切れていない。これなら作れる。そう思った瞬間、ただ食べたいだけだった気持ちに、少しだけ形が生まれた。自分で焼けば、あの記憶に近づけるかもしれない。そう考えると、台所が急に頼もしく見えた。 迷ったのは味つけだった。甘めにするか、だしを強くするか、それとも塩をきかせるか。母に電話をかけると、あの人は即座に笑った。昔の家の卵焼きは、少し砂糖が多かったはずだと言う。けれど、友人にメッセージを送ると、朝ごはんならだしを立てたほうが飽きないと返ってきた。人によって答えが違うのが面白くて、私は結局、どれにも寄りかかりすぎない自分の味を探すことにした。 ボウルに卵を割る。黄身が崩れる音が小さく響き、泡立て器を動かす手に少しだけ緊張が宿る。砂糖をひとさじ、塩を少し、だしを気持ち多めに加えた。熱したフライパンに流すと、卵は思ったより早く形を変え、表面がふくらんでいく。巻こうとした瞬間に端が少し切れてしまい、私は思わず顔をしかめた。けれど、隣で見ていた弟が、最初にしては十分だと肩をすくめる。母も、完璧じゃないほうが家庭の味らしいと重ねた。 二本目は少し落ち着いて焼けた。色はやや淡く、端はやわらかく、表面には細かな気泡が残っている。それでも切り分けてみると、湯気の奥から、昔の朝の匂いに似たものが立ちのぼった。ひと口食べた私は、思わず目を細める。派手な感動ではない。ただ、心の緊張が静かにほどけていく。こんなふうにして、失くしたと思っていたやさしさは、案外いまの台所の中で息をしていたのだ。

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