翌朝、私はひとりで台所に立った。祖母の友人が残していった言葉が、まだ湯気みたいに頭の中を漂っている。次はこの家の味を残すこと。その一行は、ただの助言ではなく、卵焼きが誰かの記憶をつなぐ器なのだと告げていた。 レシピ帳を開くと、甘い日、だしの日、疲れた朝の日に加えて、今朝の欄を作りたくなった。私は砂糖をひとさじ、だしを少し多めにして、塩は指先で迷った末に控えめにした。特別な技はない。ただ、昨日まで重ねてきた失敗と助言が、手元で静かに整っていく。卵を割る音は軽く、白身が器の底でほどける。混ぜるたびに、黄身が朝の光を吸い込んでやわらかくなる。 最初の一枚は、驚くほど落ち着いて焼けた。熱したフライパンに流した卵は、ふくらみながらも焦らず、端を持ち上げると素直に返る。巻き終えた瞬間、私は思わず息をついた。うまくいくときは、こんなにも静かなのかと思う。二枚目は少し火を弱め、三枚目は厚みを出した。どれも同じではないのに、どれも今の自分たちらしい顔をしていた。 そこへ母が起きてきて、匂いで目が覚めたと言って笑った。弟も眠そうな顔で台所に入り、今日は何人分焼くのかと皿をのぞき込む。私は食べる人の顔を思い浮かべながら、もう少しだけ焼こうと答えた。すると玄関が鳴り、予定より早く祖母が戻ってきた。その隣には、昨日会ったばかりの友人もいる。二人とも、焼き上がる匂いに誘われて寄ったのだという。 食卓に並んだ卵焼きは、思いがけず賑やかだった。祖母はひと口食べて、これは昔の味より今の味ねと言い、母は頷き、弟は一番端のふわっとしたところを狙って笑った。祖母の友人は、懐かしいのに初めて食べるみたいだと目を細める。私はその言葉に胸の奥が熱くなるのを感じた。昔を再現することだけが目的ではなかったのだと、ようやく分かった気がした。 レシピ帳の最後のページに、私は静かに書き足した。家族と分け合う味。誰かの記憶を借りながら、今の暮らしで焼き上げる卵焼き。その一文を書いた瞬間、祖母がふっと笑って、じゃあ次は私の番だねと言った。私は驚いて顔を上げたが、祖母はもう立ち上がっている。 予想もしていなかった結末は、完成した卵焼きではなく、次の朝の約束だった。皿の上には焼きたての四角が並び、窓の外には明るい光が満ちている。私は箸を置き、笑ってうなずいた。卵焼きは、食べ終わったあとも続いていく。誰かと誰かの間に、次の一枚を待つ空白を残しながら。
検閲済みプロット
卵焼きが食べたくなった主人公が、身近な人とのやりとりを通して、やさしい家庭の味を楽しみにする日常物語。
