綾香は湯気の薄くなった卵焼きを見つめてから、そっと箸を置いた。市場のベンチは夕方の風が抜けて、さっきまでの調理スペースの熱気が嘘みたいに静かだった。隣では少年が、完成した卵焼きを大事そうに小皿へ分けている。 「……おいしい」 綾香が言うと、少年は少し照れたように笑った。 「よかったです。崩れかけたのに、ちゃんと形になりましたね」 「ええ。ひとりじゃ、こうはならなかったかも」 そう言ってから、綾香は胸の奥がやわらかくほどけていくのを感じた。探していたのは、あの味そのものじゃない。祖母の卵焼きに宿っていた、誰かの手へ渡していく気持ちだったのだ。 「わかった気がする」 綾香は小さく息を吐いた。 「私は、祖母の味を再現したかったんじゃなくて、食卓をつなぎたかったんだ」 少年が目を丸くする。 「食卓を?」 「うん。ひとりで食べて終わりじゃなくて、誰かの一日が少しだけやわらぐような、そんな卵焼き」 言葉にすると、ずっと胸につかえていたものがすっと落ちた。祖母はきっと、毎年この市場でそれをしていたのだろう。顔も名前も知らない誰かに、甘いひと口を手渡していた。 少年は自分の分をひと口食べ、それから紙袋のように折りたたんでいた古いメモを、綾香へ差し出した。 「これ、綾香さんが持っていてください」 「いいの?」 「はい。祖母の字、綾香さんのほうがちゃんと見てくれそうだから」 綾香は受け取った紙を、両手でそっと開いた。何度も折られた跡の奥に、祖母の筆跡がまだしっかり残っている。 「……ありがとう。大事にする」 「それと」 少年は少しだけ笑い、けれど真剣な目で続けた。 「俺も、これからは一緒に配ります。ひとりで食べるより、誰かと分けたほうがきっと、思い出になるから」 綾香は驚いて、それからふっと笑った。 「そうね。じゃあ、あなたは運ぶ係」 「綾香さんは、作る係ですか」 「たぶん、そうなるわね」 ベンチの向こうで、市場の灯りがひとつ、またひとつとともりはじめる。綾香はメモを胸に抱え、卵焼きをもう一切れ持ち上げた。 「……今度は、私が誰かに配る番ね」 その言葉は、思ったよりも自然に口をついて出た。少年がうなずき、夕方の風が二人のあいだをやさしく通り抜ける。祖母から受け取ったものは、もう記憶の中だけに置かれていない。綾香の手の中で、静かに次の食卓へ向かおうとしていた。
検閲済みプロット
卵焼きを食べたくなる気持ちをきっかけに、日常の小さな出来事が少しずつつながっていく、一般向けの短編小説プロットに書き換える。
