エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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9章 / 全10

「じゃあ、やってみようか」 綾香がそう言うと、少年はうなずいて、祖母の型をそっと両手で持ち上げた。市場の空いた調理スペースには、片づけ終わりの静けさがまだ少し残っている。鉄板の上で油が温まる音が、かすかに空気を震わせた。 「最初は、ぼくが卵を入れます」 「うん。焦らなくていいよ。崩れても、また直せばいい」 綾香は笑ってみせたが、胸の奥では少し緊張していた。祖母の手紙を読んでから、この型がただの道具ではなくなっている気がしたのだ。少年が溶いた卵を流し込む。甘い匂いがふわりと立ちのぼり、懐かしいのに、さっきよりずっと近い。 箸先で端を寄せる。だが、思ったより厚みがあり、巻こうとした瞬間、真ん中がゆるんで崩れかけた。 「あっ」 少年が声を上げる。綾香も反射的に手を伸ばしたが、形はすでに少し歪んでいた。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」 露店主の低い声が横から飛んできた。 「そこで火を弱めな。急がなくていい」 綾香がはっとして火加減を落とすと、今度は隣で見ていた市場の女の人が小さな皿を差し出した。 「ここ、少し押さえるといいよ。昔、私もそれで助けられたの」 「ありがとうございます」 少年が受け取った皿で、綾香はやわらかく押さえ込む。崩れかけた端が、少しずつまとまっていく。 「そうそう、そのまま」 「いい匂いになってきたなあ」 誰かの声が重なるたび、調理スペースの空気がやわらかくなっていく。通りかかった人が一人、また一人と足を止めた。見守るだけのつもりだったのか、自然と手が伸びる。 「次は私が砂糖を少し」 「卵、足りるかい」 「箸、もう一本あるよ」 綾香は驚きながらも、言われるままに動いた。たったひとつの卵焼きを作るだけなのに、そこにはもう何人もの呼吸が混じっている。祖母の型は、見知らぬ手のあいだで不思議なくらい馴染んでいった。 やがて二本目、三本目が巻かれ、表面にやわらかな焼き色がついていく。焦げる寸前で止まる甘い香りが、周囲の空気を満たした。 「……できた」 少年がぽつりと呟く。 綾香は出来上がった卵焼きを見つめた。少し形は不揃いだ。けれど、最初の崩れを誰かが受け止め、誰かが支え、誰かが笑ってくれた。その全部が、焼き色の奥に残っている気がした。 露店主が腕を組み、満足そうに鼻を鳴らす。 「ほらな。ひとりで作る味じゃないだろう」 綾香は小さく目を見開いた。甘い香りの向こうで、市場のざわめきがいつもより少しやさしい。祖母が守っていたものの輪郭が、ようやく手の届くところまで来た気がした。

9章 / 全10

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