エラベノベル堂

だし香る午後、卵焼きに帰る

全年齢

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9章 / 全10

翌朝、私は祖母から受け取ったレシピ帳を台所の端に置いたまま、しばらく卵を見つめていた。甘い日、だしの日、疲れた朝の日。ページに並ぶ文字はどれも少しずつ違っていて、けれど不思議と全部が同じ方へ向いている気がした。誰かを元気にしたいという、ただそれだけの気持ちだ。 今日はどの味にしよう。そう考えた瞬間、私はもう迷っていなかった。自分のためだけなら、少し甘めでもいい。祖母の友人が好きだったという、あのやわらかな塩気を足してもいい。結局、私は砂糖を控えめにし、だしを昨日より少しだけ多めに注いだ。正解を決めるのではなく、いまの気分で選ぶ。その自由さが、妙に心地よかった。 卵を溶く音が静かに響く。母は支度をしながら、今日は誰に食べさせるのと尋ねた。私は少し考えて、まだ決めていないけれど、きっと帰ってくる誰かのためだと答えた。すると弟が、じゃあ三本焼こうと言い出した。そんなに食べられるのかと笑ったが、彼は真顔で、余るなら明日の朝にも回せると胸を張る。台所の空気が、ひとつの冗談でやわらかくなる。 一枚目は慎重に焼いた。火は弱め、巻くたびに少し休ませる。紙片に書かれた通りにするだけで、驚くほど落ち着いた形になる。二枚目は、弟の助言どおり少しだけ早く返した。三枚目は母の勘を信じて、端をほんの少しだけ重ねる。焼き上がるごとに、香りが変わっていく。甘さが前に出たもの、だしが静かに残るもの、ふわりと厚みのあるもの。どれも同じ卵なのに、表情は少しずつ違った。 そのとき玄関が鳴った。思わず顔を上げると、祖母がひとりで立っていた。来るのは来週のはずだったはずだ。息をのむ私に、祖母はいたずらっぽく笑って、予定を前倒しにしたのだと言う。ところがその背後から、もうひとり見知らぬ男性が現れた。祖母の昔の友人で、若いころから互いの家の味を交換し合っていた相手だと紹介される。私は礼を言いながらも、どこか胸がざわついた。 四人で食卓につき、焼きたての卵焼きを並べる。祖母の友人がひと口食べた途端、これだ、と低くつぶやいた。昔、自分の母親が作っていた味に似ているらしい。祖母も頷き、私の焼いたものが、自分の記憶の向こう側に届いていたのだと驚いた顔をする。私は自分でも気づかないうちに、レシピ帳の最後のページを開いていた。そこには、古い写真とともに、たった一行だけ新しい文字が書き足されている。次はこの家の味を残すこと。 私は箸を止めた。懐かしさを追いかけていたはずが、いつの間にか、未来へ手渡す仕事を受け取っていたのだ。窓の外では朝日が強くなり、卵焼きの黄身の色をそっと照らしている。母が笑い、弟が皿を寄せ、祖母の友人がもう一切れ欲しいと手を伸ばす。私はうなずきながら、次に焼くときはもっと上手くできる気がした。けれどその予感は、完成ではなく、まだ続く台所の気配そのものだった。

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