エラベノベル堂

終点の先、町は記憶を連れて

全年齢

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1章 / 全10

新はハンドルを握ったまま、自分の指先がわずかに震えているのを見ないふりをした。車内には始発前の、まだ眠気の残る空気が漂っている。窓の外では市電本町停留場の看板が、朝の薄い光を受けて淡く浮かんでいた。 「落ち着け、新。最初の一便さえ終われば、少しは肩の力が抜ける」 背後から先輩運転士の声が飛ぶ。新は苦笑してうなずいた。 「少しって、どれくらいですか」 「さあな。だが、固まったままだと電車に笑われる」 そんなやり取りに、緊張がほんの少しだけほどける。とはいえ、新の意識はすぐに車内へ戻った。点検、扉、表示灯、座席。ひとつひとつ確かめながら、彼は妙に同じ席が気になっている自分に気づく。先輩が、あの席のことを昨夜の引き継ぎで話していたのだ。 「毎朝、同じ老人が座る。無口でな、降りるまでほとんど動かない」 その言葉が、始発の静けさの中でやけに残った。新は車内を見回し、いつもなら気にも留めないような座席まで目を走らせる。まだ誰も乗っていない。なのに、そこだけ時間が少し濃い気がした。 やがて扉が開き、数人の乗客が流れ込む。通学途中らしい学生、買い物袋を抱えた婦人、そして最後に乗ってきた老人が、迷いなくその席へ腰を下ろした。白い髪、背筋の伸びた姿、そして窓の外を見ているのか遠くを見ているのかわからない目。章吾という名だと、先輩は言っていた。 新は運転席から、視線だけでそっと確認した。章吾は何も言わない。ただ、車輪の響きに身を預けるように座っている。 車内点検のたび、新はついその席へ目を向けた。忘れ物はないか、体調は悪くないか。そんな気遣いを悟られない程度に繰り返すうち、自分でも理由のわからない気配が胸にたまっていく。乗客はたくさんいるのに、なぜか章吾だけが気になる。 停留場ごとに人は入れ替わり、朝の街は少しずつ目を覚ましていく。新は規定どおりに操作しながら、耳の奥で車輪の音を数えた。まだ不慣れな手つきでも、始発車はちゃんと前へ進む。その事実だけで、胸の奥が熱くなる。 終点に近づくころには、新の呼吸もようやく整いはじめていた。すると章吾が、降車の準備でもするようにわずかに身をかがめた。新が反射的に目をやった、その瞬間だった。 小さな紙片が、座席の下へするりと落ちる。 新は息をのんだ。拾い上げようとしたが、すぐに業務の流れが頭をよぎる。まだ見てはいけない。少なくとも今は。 扉が開き、章吾は何事もなかったように電車を降りた。新はその背中を見送りながら、座席の下に落ちた紙片の存在だけを、確かに胸に残した。

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