港前広場に電車を滑り込ませたとき、朝の空気はもう少しだけ湿っていた。新は回送の手順を終えると、手のひらに残っていた小さな紙片をそっと広げた。昨夜から気になっていたそれは、折り目の端が少し毛羽立っている。そこに並んでいたのは、今は見かけない停留場の名と、古い日付だった。 「これ……」 思わず声が漏れる。見慣れた町の地図のはずなのに、知らない時代の影が一枚だけ差し込まれたみたいだった。 背後から先輩が覗き込む。 「開けたか。で、何が書いてあった」 「停留場の名前です。今は、もうない場所みたいで」 先輩は短く息をついて、車体の側面を軽く叩いた。 「章吾さんはな、毎日どこか新しい場所を見に行ってるわけじゃない。昔あった景色を、順番に確かめてるんだよ。町の記憶をなぞるみたいに、な」 「町の、記憶……」 新は紙片を見つめたまま、言葉を失った。たまたま乗るだけの常連だと思っていた。だが、そうではない。あの無口な背中は、見えなくなった何かを探している。 「気になるなら、次の便で話しかけてみろ」 先輩の言い方は軽かったが、新には妙に重く響いた。 「俺が、ですか」 「お前がいちばん気づいてる顔をしてる」 新は思わず紙片を握りしめる。紙の角が掌に食い込んだ。それでも目は離せなかった。そこに書かれた停留場名が、ただの地名ではなく、誰かの時間そのものに見えてきたからだ。 「……次、会えたら」 「声をかけろ。乗客としてじゃない。ちゃんと、相手としてな」 先輩はそれだけ言うと、回送表示の確認へ歩いていった。 新は広場の向こうに目をやった。停留所の影、行き交う人の足音、遠くの潮の匂い。いつもの終点なのに、今日はまるで別の場所みたいに感じる。 章吾はただの無口な老人じゃない。あの紙片は、その証拠だ。 新は深く息を吸い込み、次の便の扉が開く光景を頭の中で思い描いた。今度こそ、何も見逃さない。そして、今度こそ自分から声をかける。そう決めた瞬間、電車の金属音が朝の広場に静かに響いた。
終点の先、町は記憶を連れて
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