エラベノベル堂

終点の先、町は記憶を連れて

全年齢

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2章 / 全10

数日後の朝、折り返しの点検を終えた悠真が運転台へ戻ろうとしたとき、あの老人が降り際に手袋を一つ落としているのを見つけた。濃い茶色の革手袋だった。慌てて追いかけると、老人は終点の古い街路樹の下で立ち止まり、振り返った。 落とされましたよ。 悠真が差し出すと、老人は少し目を細め、ありがとうございます、と受け取った。近くで聞く声は思ったより柔らかかった。いつも車内では遠い人に見えていたのに、その一言で急に輪郭が近くなる。 毎日、ご乗車ありがとうございます。 職務上の挨拶のつもりだったが、老人は手袋を握ったまま、しばらく線路の先を見た。 こちらこそ、走ってくれて助かります。 その言葉に、悠真はうまく返せなかった。老人は少し迷うようにしてから続けた。 この電車には、家族の時間が詰まっておりましてね。若いころは妻と、娘が生まれてからは三人で。祭りの日も、買い物の日も、病院の帰りも。乗っていると、窓に昔の景色が重なるんです。 風が街路樹の葉を揺らした。老人の横顔は穏やかだったが、その穏やかさの奥に長い年月が沈んでいるように見えた。 もうすぐ終わると聞きました。だから、その前にもう一度だけ巡っておきたい場所があるんです。 どちらですか、と尋ねかけたとき、老人は小さく笑って首を振った。 着いてからのお楽しみ、というやつです。 発車時刻が迫り、悠真は頭を下げて持ち場へ戻った。しかしその日から、老人の言葉がずっと胸に残った。家族の時間。窓に重なる昔の景色。自分にとってはただ正確に走らせるべき路線が、誰かの人生そのものになっていた。 休憩所で野末にその話をすると、ベテラン車掌は缶コーヒーを持つ手を止めた。 あの人、昔はよく奥さんと並んで座ってたよ。娘さんも小さいころは騒がしくてな。運転士に手を振って、毎回怒られてた。 野末はそこで口元を少し緩めた。 でも、そういう客で車内はできてた。通う人がいて、顔を覚えて、今日もいるなって安心する。電車ってのは、ただ人を運ぶだけじゃない。 その日の午後、和菓子屋の女将に団子を包んでもらいながら何気なく尋ねると、女将も懐かしそうに笑った。 昔はね、この線路沿いを歩けば知り合いに三人は会えたの。うちの店に寄って、電車の時間までお茶飲んで。今じゃ車ばかりで、みんな急ぎ足だけど。 八百屋の店主は、学生のころ部活帰りに最終便で眠りこけて車掌に起こされた話をした。常連の老婦人は、嫁入りの日にこの電車で市役所まで向かったのだと教えてくれた。話を聞くたび、悠真の中で路線図はただの線ではなくなっていく。停留場の一つひとつに、誰かが置いていった笑い声やため息が染み込んでいる気がした。 翌朝、老人はいつもの席に座り、窓の外に目を向けていた。朝日がガラスに反射し、車内に淡い光が流れる。悠真はミラー越しにその姿を見る。老人の視線の先には、色あせた看板も閉じた店も、変わってしまった町並みもある。けれど、その向こうにだけ見える景色がきっとあるのだろう。 この電車は終わりかけているのではなく、まだ誰かの記憶を乗せて走っている。そう思った瞬間、レールを伝う振動が、少しだけ確かなものに変わった。

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