朝の車庫には、まだ夜の名残のような冷えた空気が沈んでいた。新人運転士の水城悠真は、制服の襟を整えながら深く息を吸い込んだ。配属されて三週間。点検表の数字を指で追い、ブレーキの感触を確かめ、いつも通りを身体に言い聞かせる。それでも発車前になると、胸の奥に小さな鈴が入っているみたいに、緊張がかすかに鳴り続けた。 この町の路面電車は、海と山にはさまれた通りをゆっくり走る。古びた車体は塗装の端が少し褪せていたが、朝日を受けると不思議とやわらかく光った。かつては通学の学生や買い物帰りの人々で賑わったらしい。しかし今は、車内の席が埋まることはまれで、窓の外を流れる商店街にも、閉じたシャッターが目立っている。廃線が近いという話は、会社に入る前から知っていた。悠真がこの路線に来たのは、最後を見届けるためではない。けれど、町全体が静かに肩を落としているような空気に触れるたび、自分が握るマスコンの重みが増していく気がした。 始発を出して三つ目の停留場で、老人はいつも乗ってきた。濃い灰色の帽子をかぶり、季節にかかわらずきちんと襟の立った上着を着ている。背筋は伸び、足取りも危なげない。乗り込むと料金箱に小銭を入れ、車両の中ほど、進行方向左側の窓際に座る。そして終点まで、一度も席を立たず、誰とも話さない。 最初の数日は、ただの習慣なのだろうと思った。だが毎朝欠かさず現れる姿を見るうち、悠真は少しずつ気になり始めた。雨の日も、風の強い日も、老人は同じ時間に現れ、同じ席に座る。窓の外を見ているようで、実際にはもっと遠い場所を眺めているようにも見えた。 終点に着くと、老人はゆっくり降り、折り返しを待たずに駅前の通りへ消えていく。そこに大きな店があるわけでも、病院があるわけでもない。しばらくして別の車両に乗って戻る姿も、悠真はまだ見たことがなかった。 休憩所でその話をすると、ベテラン車掌の野末が紙コップの茶をすすりながら、ああ、あの人な、と頷いた。 昔から乗ってるよ。誰よりも路線に詳しいんじゃないか。 それだけ言って、野末は続きに触れなかった。余計なことは語らないというより、語ればこの路線の終わりまで口にしてしまいそうで、避けたようにも見えた。 午後、車庫へ戻る途中、沿線の古い和菓子屋の前を通ると、店先にいた女将が電車に向かって小さく手を振った。悠真も会釈を返す。けれどその笑顔は、見送る人のものに近かった。町の誰もが、なくなることを怒るでもなく、騒ぐでもなく、ただ冬の支度のように受け入れ始めている。そんな静けさが、悠真にはいっそう寂しかった。 翌朝も、冷えたレールの上を車輪がきしむ。決められた時刻、決められた停留場で、老人はやはり乗ってきた。帽子のつばに朝の光が差し、影が頬に落ちる。悠真はミラー越しにその姿を確かめる。老人は席に座る前、ほんのわずかに車内を見回した。誰かを探すようでもあり、誰もいないことを確かめるようでもあった。 発車のベルを鳴らしながら、悠真は思う。この電車はまだ走っている。ただ終わりへ向かっているだけで、もう終わったわけではない。老人が毎朝ここにいる理由も、町の人々が口にしない思いも、線路の上にはまだ残されているのかもしれなかった。
終点の先、町は記憶を連れて
全年齢小説ID: cmnenaopn004b01n3nalu83yt
